2009年1月30日金曜日

ムーミン谷のフィリフヨンカ

「きれいにおそうじをしてくれて、ありがとう」
と、心から感心して、ヘムレンさんが言いました。

「どういたしまして。お礼なんてどんでもない。」と、フィリフヨンカは答えました。

「わたし、しないではいられなかったんですもの。あなただってわたしとおんなじように、したくてたまらないことをすればいいんだわ。」
「ムーミン谷の11月」
(トーベ・ヤンソン 作、鈴木徹郎 訳、講談社文庫、1980年)より

    
    
ありがとう、フィリフヨンカ。
今日昼寝を3時間もしてしまったけど、いいよね。

ムーミン谷のニンニ

小学生の頃からムーミンのお話が大好きである。

テレビアニメも見ていたんだけど、原作があることを“発見”し、読んだらその面白さにはまった。ファンタジーなんだけどファンタジックな感じのしないキャラクターの性格や会話の深さ、話の展開の意外さ、そして作者トーベ・ヤンソン自ら描く挿絵の魅力に取り憑かれて、ムーミン谷とフィンランドの生活を想像しながら、むさぼるように読んだ。

小学校5年の時に、読書感想文でムーミンを題材にして、ちょっと背伸びして日本文学とか読み始めてた友だちからバカにされた。でも「わかってないな〜」って逆に優越感を覚えたくらいだ。

読み始めた当時は「ムーミンパパ海へ行く」がシリーズ最終巻だった。ところがしばらくして、たまたま店頭で「ムーミン谷の11月」を見つけたときは自分の目を疑ったほどびっくりした。新刊として後からシリーズに加わったのだった。ムーミンと同時代に生きているような気がした。「ムーミン谷の11月」はムーミン一家が出てこない、しみじみとした大人の物語で、それを味わえるようになった自分もうれしかった。

ムーミンワールドにはいろいろなキャラクターが登場するけれど、忘れられないキャラクターの一人が「ムーミン谷の仲間たち」に登場するニンニ。毎日毎日おばさんに皮肉を言われ続けて、とうとう姿が見えなくなった女の子。ミイという、からだは小さいけど勝ち気で行動的な女の子が彼女に言う。

「この人はおこることもできないんだわ。……それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません。」

ニンニは言う。
   
「はい、そのとおりですわ。」
    
そしてムーミンママの力添えもあって怒れるようになった時、ニンニは姿を取り戻す。

う〜ん、深い。
    
  
  

2009年1月29日木曜日

「ベクシンスキー」復刊

以前取り上げたポーランドの画家Beksinsikiの日本で唯一の翻訳作品集「ベクシンスキー」(発行:エディシオン・トレヴィル、発売:河出書房新社、2005年)が復刊された。「復刊ドットコム」でそのことを知り、さっとく注文し、手に入れることが出来た。やった!うれしい!
  
  
すでに手元にある「The Fantastic Art Of Beksinski」も、掲載作品自体が大きく、Beksinski本人のコメントが散りばめられていて、中々魅力的な作りであったが、この「ベクシンスキー」も余白の白とのバランスが絶妙で、文字も最小限にとどめているため、意識を作品に集中できるすばらしいレイアウトになっている。
   
また、「The Fantastic Art Of Beksinski」とはダブらない作品も多く収録されているため、この2冊でBeksinskiのある程度の作品群が堪能できることになる。まだ収録されていない絵画作品も多いし、写真やデジタル合成作品も制作していたので、全体像を知るのはまだこれからということになるけれど。
解説の「ベクシンスキーの自己精神療法」で、美術評論家タデウス・ニクツェックがいみじくも「ベクシンスキーの絵を見て誰でもまず思うことは、これは神経症患者が描いた絵だということである。」と書いている。しかし彼はこうも言う。「彼は絵を描くから生きているのであり、生きているから絵を描くのである。」

芸術とは何かという自己への問いかけの末に到達した作品ではなく、彼が描かずには生きられなかった世界がそこに広がっている。その世界はグロテスクでありながら甘美であり、わたしの今まで触れられなかった部分に触れ、満たされなかった空間を満たしてくれるような気がするのだ。

なかなか「いいね」って言ってくれる人は周りにいないんですけどね。
  
  

2009年1月28日水曜日

「存在悪としての怪獣」への道

先に触れたように「ゴジラ」(1954)におけるゴジラは、水爆による被害者であり街の破壊者という両義的な存在だった。その結果としてゴジラ=悪、という図式は徐々に作られていく。

「ゴジラの逆襲」(1955)では新たなゴジラが姿を現し再び破壊者となる。「ゴジラ」では山根博士が「ゴジラに光をあててはいけません。ますます怒るばかりです。」と発言し、さらに「ゴジラの逆襲」では、ゴジラは光に激怒する体質があるから灯火管制すべきだとする。理由は、ゴジラには水爆実験に対する怨念のようなものがしみついているのだと言うのだ。なぜわかる、山根博士って感じだが、山根博士だけは作品「ゴジラ」が持っていた“被害者としてのゴジラ”を、忘れていなかったということだろう。
    
つまりゴジラは夜の光り輝く大都市を、怒りを持って破壊しにくるのだ。だから上陸したのは東京であり大阪なのだ。ここで大事なのは、ゴジラの破壊に理由があるということだ。アンギラスはおそらく単なる邪魔者に過ぎない。
   
「大怪獣ガメラ」では、まずガメラが襲うのは地熱発電所である。そこでガメラが燃え上がる炎を吸収する姿が描かれる。つまりガメラは餌を求めてやってきたのだ。カメが唯一の友だちだった俊夫少年は、ガメラに対峙している博士たちにこう言う。

「ガメラはひとりぼっちできっと寂しいんだよ。本当は悪いヤツじゃないんだ。カメはおとなしい動物なんだよ。ガメラは寂しいからお友達を探しているんだ。お腹がすくから餌を探しているんだよ。」

子どもなりの表現ながらまさに的をついた指摘ではないか。つまりガメラには餌を求めて大都市に来るという理由がある。だから地熱発電所の次にやってきたのは京浜地帯の石油コンビナートだ。

つまりこの頃はまだ、ゴジラにもガメラにも怪獣として破壊せざるを得ない理由があった。あるいはそれをある程度明確にしておこうという視点があったのだ。

その後のガメラシリーズでは、バルゴンは人間やダイヤを食べ、ギャオスは人間や豚、犬なども食べる。人間が食われるというのは「お腹がすくから」では済まされない恐怖がある。こうしてバルゴン&ギャオス=破壊者&肉食=悪玉となる。相対的にガメラ=善玉の下地ができあがる。ただし戦いは動物の“敵対本能”として行われ、もちろんガメラはまだ人間の味方とか子どもの味方にはなっていない。ただしその後の作品では宇宙人の侵略にガメラが立ち向かうという図式が多くなっていき、対する“悪い怪獣”という存在が作られていく。

東宝怪獣映画は「大怪獣ガメラ」の前に、「キングコング対ゴジラ」(1962)、「モスラ対ゴジラ」(1964)、「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964)を発表している。キングコングはファロ島の“巨大なる魔神”だったのを、無理矢理日本へ連れてこられた。キングコングもまた人間の欲望の被害者である。キングコング=被害者=善玉、という図式から、すでに何も背負っていないゴジラ=理由なき破壊者=悪玉となり、ゴジラは存在そのものが悪となる。こちらでも“悪い怪獣”が誕生する。

この図式は「モスラ対ゴジラ」でより強調される。卵を守って必死に闘う母モスラを殺し、卵から孵った幼虫モスラが力を合わせてその仇を打つ。ここではもう人情的にゴジラ=悪が決まってしまう。

しかし「三大怪獣 地球最大の決戦」で地球怪獣代表としてモスラ、ラドンと協力の末、宇宙怪獣キングギドラを倒したあたりから、ゴジラ=人類を助けた=善玉と様変わりしだし、代わってキングギドラのようなゴジラの敵が“悪い怪獣”となっていく。

エンターテインメント性が高まるに連れて、怪獣バトル色が強くなり、なぜ怪獣が現れるのか、なぜ怪獣は街を破壊するのか、なぜ怪獣は倒すべき敵なのかの検討はされなくなり、極端に言えば、ゴジラとガメラとモスラ以外は“悪い怪獣”であり、“悪い怪獣”の存在が自明のこととして受け入れられるようになる。基本的に怪獣は、存在そのものが破壊者であり悪、現れただけで攻撃の対象、抹殺の対象へと変化する。

さらに実は「ゴジラ」以来、怪獣による大規模破壊そのもものや、怪獣同士の戦い自体が、大きなカタルシスを生むことに、
観客が気づいたことも大きい。そこに七面倒くさい理由はいらなくなったのだ。

それは
結果的に次の展開の受け入れ体制を整えたことになる。
次の展開とは?

もちろん、“怪獣退治の専門家”「ウルトラマン」(1966)の登場である。

(写真はすべてガチャガチャフィギュア。上がゴジラ対アンギラス、下がキングギドラ。)

2009年1月25日日曜日

GIPSYKINGSとGipsy Kings

Gipsy Kings(ジプシー・キングス)が大好きである。哀愁のメロディー、かき鳴らされるギター、ルンバ・フラメンカの軽快なリズム、情熱的なボーカル、美しいハーモニー、繊細でありながら血が騒ぐギターソロ。元気が今ひとつな時に立ち向かうエネルギーをもらえたり、凝り固まったアタマをほぐしてくれたりしてくれる。

Gipsy Kingsは1987年「Djobi,Djoba(ジョビ・ジョバ)」「Bamboleo(バンボレオ)の大ヒットで、当時のワールドミュージック・ブームの火付け役&牽引役的に有名になった。しかし彼らの音楽活動の歴史は長くもっと、以前から今同様の熱く哀愁漂う音楽ではあったが、ギターと歌にパルマ(拍手)を加えたシンプルなものだった。この時代に彼らはGIPSYKINGSとして「ALLEGRIA」と「LUNA DE FUEGO」の2枚のアルバムを残している。

しかしそこにロックやポップス的な要素を取り入れ、ドラムやベースを入れてリズムを強調したり、キーボードを入れて音に厚みを加えたりした結果、泥臭さや音の単調さが消え、洗練された新しいエスノ・ポップスとして受け入れられたのだった。そしてグループ名はGIPSYKINGSからGipsy Kingsへと変わり、上記のヒット曲が含まれているアルバム「Gipsy Kings」で人気が爆発する。

「Gipsy Kings」の成功の後、バンドは基本の曲のあり方は変わらなくても、アレンジ面で様々な試行錯誤を行っていった。それは新しい音楽作りへの挑戦でもあったが、反面、様々な楽器の導入やリズムの強調が、基本のギターと歌が持つ魅力とぶつかってしまう場合もあった。

そんなこともあって、わたしがよく聴くのはGIPSYKINGS時代のアルバムなのである。日本では「Djobi,Djoba」(邦題は「ジョビ・ジョバ/ベスト・オブ・ジプシーキングス」)として「ALLEGRIA」と「LUNA DE FUEGO」の2枚のアルバムを1枚にしたものが出ている(ただし全曲収録ではない)。
   
   
このアルバムでは、ほぼギターと歌とパルマだけで曲が演奏される。実にシンプルでそれぞれの良さを堪能できる。さらに曲間に話し声や会話が入っているのが良いのだ。音楽仲間が集まって「次はあの曲をやろうぜ」みたいな、楽し気な雰囲気がある。目の前で演奏しているような感じなのだ。
    
しかし曲自体はユルくはなっておらず、歌が始まると情熱と哀愁とスピード感あふれる世界が広がるのは、後のGipsy Kingsと同じだ。むしろ小細工のないストレートな力を持っている。特に「Amor D'Un Dia」は言葉はわからなくても泣ける一曲。

Gipsy Kingsの本質に触れられる傑作、ファン必携の一枚。

ちなみに、Gipsy Kingsになってからのお気に入りは、勢いのあるセカンドの「Mosaique」(邦題は「モザイク」)と、「Roots」で原点回帰した後の2007年に出た最新作「Pasajero」ってとこでしょうか。こちらは余裕のある温かさが魅力。
   
  
   

2009年1月24日土曜日

ダダABCな喜び

関心のない方には、何のことかと思われるでしょうが、
ウルトラマンに出てきた宇宙人ダダには、AとBとCがいるのです。
突然な話題であいすみませぬ。

 
なぜABCというアルファベットなのかはわかりません。
宇宙人ですので聞けません。
地球人が便宜上付けたけたのかもしれませんし。

以前のガチャガチャシリーズでAとBはゲットしていたのです。
Cはゲットできないまま、シリーズは終わってしまいました。
もう揃わないものと諦めておりました。

がしかし、神は我を見捨てなかったのです。

昨日、新シリーズにあるダダCをゲットしたのです!

別シリーズの混合セットながら3体揃ったダダABC。
思わず並べて写真におさめてしまいました。
ささやかな幸せも、今は大事でございます。

   

(右からダダA、B、C

2009年1月18日日曜日

「特撮怪獣映画」考

日本の特撮怪獣映画はゴジラが2004年の「ゴジラ FINAL WARS」、ガメラが2006年の「小さき勇者たち〜ガメラ〜」をもって止まっているが、その基本は1954年の「ゴジラ」以来、テレビのウルトラマンシリーズを含めて、一貫して着ぐるみとミニチュアセットを使ったものであった。
映画「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」(2001年)の制作において、たしか金子修介監督がバラゴンの四つ足にこだわったという秘話があった。着ぐるみで四つ足怪獣を演じると、どうしても膝をついた姿勢、つまり“はいはい”の姿勢になってしまう。四つ足の生物としては後ろ足が不自然なのだ。しかし「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」のバラゴンは膝をつかず、しっかり四つ足で踏ん張って動いている。アクターの苦労が忍ばれる。


  
しかしその逸話は、もう着ぐるみによる怪獣映画の限界を、図らずも露呈することになったのではないか。
  
アメリカ版「GODZILLA」や近年の「CLOVERFIELD」で出てくる怪獣・怪物はCGである。そもそもが怪獣と言うより未知の巨大生物であり、日本の怪獣のように火を吐いたり光線を出したりという、非生物的な技は持っていない。まぁリアルなのだと言える。それは時代の流れではあるだろうが、リアルこそがすべてではない。日本の特撮映画はそのリアルさとは違った面白さを持っていたと思うのだ。それは視聴者との共同作業で作られたファンタジーであった。
例えば、古くは「ゴジラの逆襲」(1955年)で、ゴジラは四つ足のアンギラスと対決している。あるいはガメラは「ガメラ対バルゴン」(1966)で、当時は立ち上がらなかったガメラとバルゴンが、四つ足同士の対決をしている。そこに不自然さはない。着ぐるみを忘れさせる迫力がそこにはあった。
    


   
     
アラを探せばもちろん“はいはい”の問題だけでなく、戦闘機にピアノ線が見えるとか、ウルトラマンの目にアクターがのぞく穴が開いているとか、からだに着ぐるみっぽいシワが寄るとか、怪獣の足の指に生気が感じられないとか、色々あるわけだ。

しかし視聴者は怪獣が着ぐるみであるということを忘れるとの一緒に、そうした様々なアラを見なかったことにし、そこでしか味わえない迫力とカタルシスを味わった。そういう暗黙の了解があったと言える。こういう見る側の姿勢は、文楽で人形使いを“いないもの”として楽しむのに似ているかも。だから日本ならではなのかもしれない。

そして日本の特撮映画は独特のリアルな、あるいはリアルを超えた迫力あふれる映像を作り出した。「ゴジラ」(1954)の白黒映像を活かした圧倒的な巨大生物の恐怖感、
「地球防衛軍」(1957)で敵の巨大ロボット、モゲラが山肌を崩して現れる時の巨大なスケール感、「モスラ」(1961)で建物を破壊しながら東京を這い進むモスラの幼虫の、低いカメラ目線から得られる圧倒的な威圧感、「大魔神」(1966)の異様な重量感、キングギドラの吐く引力光線の破壊力の凄まじさ、等々。

「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」(1999年)では、飛行シーンでの迫力ある格闘をCGで描いていたが、まだ、嵐の京都で、吹き飛ばされた板きれのようなものが電線にあたってショートするといった、ミニチュアセットならではのこだわりも堪能できた。



しかしバルゴンの四つ足へのこだわりは、実はこうした暗黙の了解の上になりたっていた日本特撮怪獣映画が、ついにその暗黙の了解を捨て、アメリカ的リアルさを追求するかどうかのギリギリの状況に至っていることを物語っていたように思う。

現在まで、ノスタルジックムード満点のウルトラマンシリーズ以外、本格的怪獣映画が日本で製作されていないのは、次の怪獣映画をどういう手法で行くのかが見えないからではないだろうか。ミニチュアセットの手作り感への愛着、着ぐるみ怪獣の実際に動いているという生の存在感、そして
CG映像がもたらすアルな造形と映像の魅力との葛藤。

個人的にはどのような怪獣映画が出てくるにしても、ぜひ怪獣は火か光線を吐いて欲しいなぁと思う次第である。

(写真はどちらも超リアルなガチャガチャフィギュア。上が
「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」のバラゴン、下が
の「大怪獣バラン」(1958)。後ろ足の使い方が違う。)

2009年1月15日木曜日

「悲劇排除システム」業田良家

もともと隠れた名作としてカルトな人気があった「自虐の詩」のブレイクで有名になった業田良家。「自虐の詩」のラストの息もつかせぬ感動へのばく進は凄まじかった。しかし「ゴーダ哲学堂 悲劇排除システム」(小学館、2002年)は感動というには気恥ずかしい微妙な心の揺れなんだけど、今までにない感覚や視点に、静かに深く触れることができる短編集だ。

 「肌と肌…
  触れ合うことを
  忘れなければ…
  ボクたちは
  なんとか生きていける。
  ボクたちはほ乳類だ。」
    (「ほ乳類の一日」より)

久しぶりに今、この本のことを思い出して読むことにも、きっと意味があったのだろう。ベクシンスキー、業田良家、無意識にも心の中で模索が続いているのだろうな、きっと。

「ゴーダ哲学堂 空気人形」(小学館、2000年)の表題作『空気人形』も、ちょっとエロチックでとてもせつない、大好きな大好きな大好きなお話です。



ベンザリン、まずまず

昨晩ベンザリンを飲んだ。
 
寝つけない場合に服用する

睡眠導入剤(入眠剤あるいは催眠剤)は
レンドルミン、マイスリーと体験済みだけど、
長期型の、いわゆる睡眠薬は初めてだ。

    
初日の結果は、まずまずといったところ。
夜中に2時間おきに3回くらい目が覚めていたのが、
夕べは1回だけだった。
さすがにいつもよりは寝た感じがする。

 
思ったほど朝もボ〜っとしていない、みたい、
眠いけど……グ〜……。

そう言えば、へんてこりんな夢の記憶もないから、
眠りはいつもより深かったのかも。
抗ストレス戦隊、まずまずの発進かな。

寝られるならできるだけ寝よう、
未だに倦怠感の抜けないカラダのために。
   

    

2009年1月14日水曜日

ベクシンスキー画集

Zdzislaw Beksinski(ズジスワフ・ベクシンスキー)はポーランドの画家。たまたまネットで不気味なのに妙に魅かれる絵を見つけたのが最初の出会い。以来とても気になっていたのだが、画集「The Fantastic Art of Beksinski」(MORPHEUS, 1998)を手に入れてしまった。
    
    
EL&Pのジャケットや映画「エイリアン」のキャラクターデザインで有名になったH.R.Giger(ギーガー)の作品集を見た時も、特に高校生くらいだったこともあって、“見ては行けない世界に踏み込んでしまった”感が凄まじかったが、最近ネットでBeksinskiの絵に出会った時も、久々に、見ては行けない世界に踏み込んでしまった〟衝撃を受けた。

生まれる前から刻み込まれていたような既視感を覚える、荒涼とした、しかしどこか人工的で、時になまめかしい風景。荒々しく生と死を感じさせるモチーフや色の組み合わせ。痛々しさと美しさがにじみ出る、多用されるクモの糸のような細い線。恐怖と狂気の向こうに見える、静けさと心地よさの宿る孤独な世界。彼のすべての作品にはタイトルはついていない。

「私は当初から至極単純に美しい絵を描こうとしてきたのだ。美しいこと。もちろんそれを媚びていると取る人もいるかもしれない。しかし、それは基本的なこと、唯一重要なことなのだ。」(同書より)

残念なのは、下のような、ネット上で見られる様々な作品が網羅されてはいないこと。 まだまだこんなもんじゃない。でも取りあえず現在のところでは必携。

ちなみに、彼の絵は同国のプログレッシヴ・ロックバンドCollage(コラージュ)のアルバムジャケットでも使用されている。
    
   
   

睡眠薬「ベンザリン」参戦

正月をはさんで3週間ぶりの検診の日は、
やはり超混んでいた。
診察券出してから呼ばれるまで3時間。
混んでいて待つ場所が遠くなるので、
呼ばれたのを聞き逃さないようにiPodを聴いていられない。
   
他の科は放送で
  
「○○さん、眼下、中待合室にお入り下さい。」
  
とか呼ばれるんだけど、
「精神科」は放送ではなく診察室入り口で名前を呼ばれるのだ。
やっぱり
  
「○○さん、“精神科”、診察室へお入り下さい。」
  
って放送されるのは抵抗あるからなんだろうな。

ジェロ先生は今日もパソコンの画面を見ながら、
いつもと同じ調子だ。

「ええっと、この3週間、どうでしたかに〜?」
   
「お正月前後、ストレスがたまったようで、
 先週から気分的な落ち込みと、体調不良で寝込みました。
 やっと落ち着いたところです。」
   
「お正月はね〜、みなさんそうなりがちなんですよね〜。
 だからあまり気にせずに。今安定してきているなら、
 いいんじゃないですかに〜。」
   
「ただ、最近、夜寝ても2時間おきくらいに
 目が覚めてしまうんです。
 その後寝られなくなるということはないんですが…」
   
「それはちょっとよくないですに〜。
 眠った気がしないというのは辛いですし。
 昼間のストレスが
 そういうかたちで出ているんでしょう。
 寝付きが良くないときは
 マイスリー2錠飲んで結構ですから。
 それからやっぱり
 途中で目が覚めないような睡眠薬
 加えてみましょうか。」

ということで、「ベンザリン」という薬が加わった。
助っ人登場か。
「ベンザリン」は血中濃度半減期28時間という
長期型の睡眠薬。

これで、
   
・ジェイゾロフト(抗うつ剤
メイラックス(抗不安剤)
ベンザミン(睡眠薬)
   
の3トップ体制で、
援護で
   
・セディール(抗不安剤)
マイスリー(催眠剤)
  
が控えているという布陣となった。
おお、こう書くとカッコイイぞ。

とはいうものの診察に行くと疲れる。
人は多いし待ち時間は長い。
だからちょっと不安定になる。
帰ってから抗不安剤のセディールを飲んだ。

仕方ないんだけど、
医者に行って不安定になるっていうのも、
なんだかなぁ、だなぁ。

   
    

2009年1月11日日曜日

「ウルトラ戦士」考

例えばウルトラセブンが生来あの姿であるとは思えないのだ。アタマに武器を乗っけてM87星雲では普通に生活しているのか?違うだろう。あの肩のプロテクター、額のランプ、カラダの赤と白のデザイン。あれは戦闘スーツだと思うのだ。
 


   
確か、昔々の少年雑誌で、ウルトラマンの解剖図みたいなのがあって、右手と左手にそれぞえプラスエネルギー袋とマイナスエネルギー袋があり、これを交差することでスパークしてスペシウム光線が出るみたいな図が載っていた気がする。解説者の勇み足だな、地球人だしな。人体構造的に戦闘機能がついているとは思えない。

超能力までは許そう。カメハメ波みたいにエネルギーをぶつけることは、彼らは“修行”によって体得できる。でもその発揮方法は個体差とか好みがあって、手をクロスしたり、額から出したりする。ウルトラセブンの
アイスラッガーも、念動力(サイコキネシス)でコントロールする武器だな。

だから自分が修行によって体得した技によって、着用する戦闘スーツも変わるわけだ。あときっと好み。色とかカタチとか。平成ウルトラマンシリーズみたいに、タイプが切り替わるっていうのは発揮する戦闘能力に応じて、それに適した種類に変えられる、マルチタイプのスーツっていうことか。進化してるわけだ、スーツも。見た目は色が変わるだけだけど。

カラータイマーも、相手にエネルギーが消耗していることを教えてしまうという致命
的なモノだけど、戦闘スーツとして仲間同士で助け合うにはわかりやすい。だからあれは本来単独行動用ではないのだ。 ウルトラマンは地球上に3分間しかいられないのに、ウルトラセブンは時間制限がないというのも、修行の違いか、戦闘スーツの違いじゃないかな。

では一番の謎。戦闘スーツを脱いだらどんな姿なの?
これはですね、人間と同じっていうのはイヤだ。それでは着ぐるみだ。グレイみたいなのっぺ
りした宇宙人っていうのもイヤだ。いきなり気持ち悪い。たぶん実体のない存在っていうのが、一番しっくりくる。「光の国」にいるんだし。だから実体が必要な地球で闘うには、実体として戦闘スーツが必要なのだ。っていうか憑依みたいなものか。そして修行によって地球のような物理的制約の中で闘うための技術を体得するのだ、と。
きっと帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)は、ウルトラマンの後継者みたいな技の使い手だったから、戦闘スーツも同じタイプだったんだ。でもまるっきり同じじゃヤダみたいに思って、ラインが増えたちょっと派手なものを選んだんだよ。オシャレ〜。
   

   
(写真はどちらも精巧なるガチャガチャフィギュア)

2009年1月7日水曜日

「心の休ませ方」加藤諦三

「いつもニコニコしていて、
  イヤなことがあっても怒らずに対処してるからスゴいね」

とか

「生徒のこと、絶対悪く言わないよね」

とかよく言われてきた。
でもそれは怒れなかったんだ。
怒ることで人間関係が崩れるのを、
たぶん極端に恐れていたんだと思う。

ひたすら自分が譲歩することで対処してきた。
その中で自分の力を発揮できる場所を見つけてきた。
しかし怒りは抑え込まれ、
憎しみとなって沈殿していたんだね、きっと。

「心の休ませ方 『つらい時』をやり過ごす心理学」
(加藤諦三 著、PHP文庫、2006年)は、
読む人を選ぶ本である。
うつの原因を、生育歴における愛情飢餓感に限定し過ぎている。
うつ状態に陥る心理、あるいはうつ状態の思考傾向については、
くどいほど書かれているが、
多様化しているうつ的症状を考えると偏りがある。
そして、
ではどうしたらよいかという具体的で力強いアドバイスはない。

しかし、この本は、抑え込まれた怒りや憎しみが存在すること、
それを解放することが大切なことを、
初めてわたしに示唆してくれた。
薄々気づいてはいたことではある。
でも面と向かって言われたのだ。

「生きることに疲れたあなたは、
 あなたの心の底にたまった『無念の気持ち』の
 すごさに気がついていない。
 心の底にたまった『悔しさ』の
 量に気がついていない。
 生きることに疲れたあなたは、
 憎しみや敵意があることを自覚することである。」
                (同書本文より)

著者の言葉はキツい。しかしストレートだ。
誰にでも薦めたいとは言わない。
しかし自分にとって
今必要なことが書かれていた本であった。