2009年4月28日火曜日

動けない真昼に見た夢

いきなり自分に
規律正しい生活を課そうとしたせいか、
今日は動けない。

二度寝を1時間くらいしてちょっと中途半端に起きて、

昼食をとり、本でも読もうかと横になったら
3時間近く寝てしまった。
祭の準備だ。

元来祭はあまり好きではない。
遠くから眺めている分には良い。
しかしその中に入ってもみくちゃになりながら
神輿を担いだりするのは苦手だ。
   
しかしそこではわたしは、家にいる。
実家のようだがレイアウトが少し違う。
家が祭の何かの仕事を司っているらしい。
言わば祭の関係者にして裏方だ。
忙しく何かの準備をしている。
そういう独特の役割を、
代々持たされているっていうのはいいなと思う。



場面が変わる。
古い白黒のドキュメンタリーか盗撮映像のようだ。
遠くから当人たちにわからないように撮っている。
フィルムが古いせいかピントがうまく合わないせいか
顔まではよくわからない。

こどもが大勢の大人に引きずられていく。

建物らしいものも少ない、
貧しい村のはずれのようなところだ。
そこで大勢の中の一人が銃を取り出し、子供を撃ち殺す。
音は聞こえない。凄惨な場面も見えない。
でも子供は撃たれ、死んでしまった。
誰かが言う。「一発だな。」

また場面が変り、着物姿の女性がうれしそうにしている。

昔お世話になった出版社の方だ。
結婚式にも呼んでいただいた。
ご自身もつらい思いをされて会社を辞め、
今回も一番辛い時期にいろいろアドバイスをいただいた。
「今、忙し過ぎる夫がちょっと心配で…」とも言っていた。

なぜかその人は、ニコニコ楽しそうなのだ。

わたしもそれを見てウキウキとしてくる。
また祭の世界に戻ったのかもしれない。
そしてわたしは唐突に思う。
「この人と結婚していたら、どういう人生になっていただろう」と。

目が覚めた。

実家は祭には一切関係はない。

最近身の回りで祭は行われていないし、
そういう映像も見ていない。
子供が撃たれるような映像など、今までに見た覚えはない。
お世話になった女性とは、
年が明けてからメールを一度したきりだ。
年末から返事がこなくなって心配だったから
夢の中の彼女を見て、なおさら嬉しかったのかもしれない。

わたしの無意識の世界で

渦巻いているモノはなんなんだろう。
  

  

ベンザリン(睡眠薬)減薬2日目

ベッドに入ったのが12時半。音楽聴いて就寝が1時くらい。
服薬はベンザリン1錠、メイラックス1錠。
眠りに入るのには時間がかかれなかったが、
やっぱりワンサイクルの2時半くらいに目が覚める。

昨夜はこの時に、
なんかいろいろ考え始めそうで、
再入眠に時間がかかりそうだったため、
結局ちょっとしたところでレンドルミン(入眠剤)を飲む。
これで眠れた。

起床は7時半くらい。
一度目が覚めた時間を差し引くとトータルで6時間くらいか。
でも睡眠サイクル的には後半は崩れてるから寝覚めは今ひとつ。
洗濯開始にゴミ捨てまで行ってきて、
よく動けてはいるけどね。

入眠後最初のサイクルで
目が覚めてしまう事はよくあったので、
ベンザリン減薬だからというわけでもなさそう。
それより再入眠が夕べだけのことでなく難しくなるようなら、
ベンザリン減薬が影響しているのかも。

でもレンドルミンで眠れるなら、
翌日には眠気が残らないわけだからその方がいい、
というところかな。
様子を見て、それでいければ次回の検診では、
ベンザリン1錠レンドルミン1錠で行きたいと申し出てみよう。

次回の検診は5月13日の連休明け。
それまで「第2次不服薬計画人体実験」は続くのである。
あっ、睡眠不足分の二度寝か昼寝をしとかなきゃ。
  
  

2009年4月26日日曜日

「第2次不服薬計画」発動!

結局のところ抗うつ剤「ジェイゾロフト」の断薬
(2/27「真夜中の決断」ご参考のこと)後からちょうど2ヶ月。
  
抗うつ剤服薬のコントロールは徐々に行うものらしいのに、
バッサリ切った。
それでも特に変化はなかった。
根本が「うつ」とは違うんだろうという気持ちは強くなった。

しかし「二日酔いシンドローム」はまだ時々出るから、
ストレスには注意が必要。
特に目、肩、首の身体的ストレスも気をつける。
それならパソコンやり過ぎでは、
ということは心の奥底にしまっておこう。

もう一つ、睡眠障害的な部分もまだ残っている。
だから結局現在服薬しているのは以下の3種類。
すべて寝る前に飲む。

 ベンザリン 10mg
 メイラックス 5mg
 レンドルミン 0.25mg(必要に応じて)

レンドルミンは
最高血中濃度時間が1.5時間という短時間型の薬。
だから「もう、すぐに寝るぞ」という時でないと意味がない。
ただその分副作用などの心配はいらない代わりに、
薬効も弱いと言われているらしい。
確かにレンドルミン飲んで
「あ〜眠くなってきたっ」って実感はあまりない、
なぜか好きな薬なんですけどね。

メイラックスは抗不安剤で、
精神的な鎮静作用に加えて筋肉を緩める働きもあって、
緊張型の肩こりなどにも処方されることがあるらしい。
血中半減期が60〜300時間の「超長時間作用型」。
これは意外と意識していなかったけど効いているのかも。

そして睡眠薬ベンザリン。
最初は5mgだったのがあまり効いた実感がないと話したら10mgになった。
「ベンゾジアゼピン系」の薬ということで、
かつて使われていた「バルビツール酸系」のように
致死量の低い薬と違って安全性が高い。
   
つまり昔よく耳にした
「睡眠薬を大量に飲んで自殺(未遂)」みたいなことは
「ベンゾジアゼピン系」だと防げるということだ。

でも気になるのは血中濃度半減期28時間という
「長期型」だという点。
夜中に目が覚めてしまって眠れない
という症状に有効とされているらしい。
夜中に目が覚めてもウツウツと眠れないということもなく、
また眠れているのはこのベンザリンのおかげなのか。

それともストレス自体が減ったせいなのか。
もともと病休に入る前も、
目は覚めても朝方まで眠れないということは
なかったような気がするし。

ということで、
「第1次不服薬計画(抗うつ剤断薬)」に続き、
そろそろ「第2次不服薬計画」を実行してみたいと思う。
狙いはこのベンザリンだ。

まず現在2錠(10mg)を1錠(5mg)にして、
しばらく様子を見てみる。
その代わりレンドルミンを併用する。
問題がないようならベンザリンを断薬、
レンドルミンだけにする。
そして最終的には睡眠薬(催眠薬)なしで
眠れるようにいしていく。
完全断薬生活だ。

さぁどうなるかな。
人体実験はまだまだ続いている。
  
  

2009年4月25日土曜日

アニメ&近衛十四郎の謎が解けた!

俳優近衛十四郎(このえ じゅうしろう)の殺陣が好きだった。子供ながらに「この人は別格だ!」と思っていたものである。「別格」という言葉は知らなかったと思うが。

近衛十四郎の素浪人シリーズは、テレビで大ヒットして「素浪人 月影兵庫」(1965)、「素浪人 花山大吉」(1969)と作られる。それを親と一緒に見ていて、9歳なりに面白い番組だと思っていた。それも二人の漫才のようなかけあいの妙とか、最後に近江中四郎が剣を抜いてからの殺陣の凄さとかも、しっかり楽しんでいた。
   
左が近衛十四郎、右が品川隆二
   
年代的には「素浪人 花山大吉」を一生懸命見ていたんだろうな。とにかく近衛十四郎の剣さばきが美しいのだ。相手をかなり近くで切る。カラダの軸が安定していて、ムダな動きがない。そして速い。

段取りが決まっている殺陣だとわかっていても、思わず見とれてしまうのだ。未だにこの人以上に殺陣に魅力を感じる人はいない。

という殺陣の話ではなくて、さらに思い出してしまったのは、その「花山大吉」シリーズが多分終わってからのことなんだろうけど、近衛十四郎に小さな妖精のような(だったかな)アニメキャラが絡むシーンが記憶にあるのだ、なぜか。1970年頃のテレビなのに。

人形とかではない。アニメである。だから実写とアニメの合成で、舞台は「花山大吉」風の時代劇。場面は居酒屋かなにか。さすがにシリーズで見た記憶はないのだ。“一場面”としての記憶しかないのだ。

何か特別にそんな実験的なことをやったのかなぁ。まさかねぇとは思うんだけど、わたしのアタマのすみっこにずっと記憶としてあるんですよ。

ずっと夢でも見たのかなぁと思っていたのだが、夢ではなかった。実際に実写とアニメの合成を、時代劇でやっていたことがこの度判明したのであります。

「時代劇専門チャンネル」というサイトに載っていた。近衛十四郎がアニメと絡むのは「素浪人 月影兵庫」、「素浪人 花山大吉」に次ぐ第3弾、「素浪人 天下太平」(1973)であった。

たぶんさすがに第3弾は少し趣向を変えようとしたのだろう、相棒の焼津の半次(品川隆二)はシリーズ2作目までで、第3シリーズはうづ巻の勘太(佐々木剛)が新しい旅の相棒。

同サイトには
  
オープニングと本編中に登場するアニメの小鳥と言葉を交わしたりして、なかなかメルヘンチックな素浪人として描かれている。」
  
と書かれている。

これだ。わが記憶に誤りなし!

でもどうなんですか、時代劇でアニメって。これだけ印象に残ってるってことはインパクトはあったんだろうけど、違和感のインパクトかも。でも映画ではなく毎週放送のテレビ番組となると、技術的にも
かなり冒険だった事は確かだろう。

それに「貧乏神」まで出てきて加勢するらしい。さすがにちょっと新機軸に針を振り過ぎなんじゃないか。ぜひぜひ観てみたい。




2009年4月24日金曜日

ニケとナイキ

いつだったか、ある女性から、スポーツ関連用品を扱う「ナイキ」はギリシャ神話に出てくる勝利の女神「ニケ(Nike)」に由来してるんだよと教えてもらったことがあった。エッと思った。なんとなくニケの翼の像の記憶があったからだ。
   
   
「ニケ(Nike)って英語読みだとそのまま“ナイキ”になるんだよ。そしてさ、ほら、ニケってさ女神なんだけど、ニケの像っていうのは首がないじゃない。だからその像を見た人にとっては、大きく広げた翼が強く印象に残るのよね。
 でね、ナイキのロゴマーク(右上図)って、あの翼を広げた姿からきてるんだってよ。
 スポーツ選手は、あのロゴマークを見ると、ニケの像を思い出し、勝利の女神ニケを思い出し、どうか勝利へ導いて下さいって感じになる、っていうのを狙っているってわけよね。」

確かにルーブル美術館にある「サモトラケのニケ」の写真を見ると首がない。エーゲ海のサモトラケ島で発見された時にはこの姿になってしまっていたという。(写真はWikipediaより)
   
   
そして、そう言われれば確かにナイキのロゴはニケ像の“翼”に似ている。単純な曲線だけれど、大きな意味があったんだな。そう思って見るとなんかカッコイイじゃん、このロゴ。

何の知識もなく、ただシンプルなロゴマークだなぁとしか思っていなかったわたしは、その話を聞いていたく感心し、以来何となくナイキのスポーツ用品を意識するようになった。特にこだわっているわけではないんだけど。

でももし勝利の女神が見守っていてくれるのなら、別にスポーツに限らず見守っていて欲しいなぁ。今なんか特に、ちょっと手を貸してくれたりしたらうれしいだろうなぁ。

昨日少し汗をかきながら歩いている時に、その話を思い出した。ウォーキング用にナイキのウェアでも買ってみようかな(っと、他力本願になりやすいわたし)。
   
   

2009年4月21日火曜日

「荒木経惟写真全集第3巻 陽子」荒木経惟

  
荒木経惟写真全集第3巻 陽子」(荒木経惟、平凡社、1996年)は、平凡社が出した「荒木経惟写真全集」全20巻の中の第3巻、タイトルの通り、天才“アラーキー”こと荒木経惟の奥様である陽子さんの写真を集めたものだ。

東京人生 SINCE1962」を買って、そのモノクロームの魅力に魅かれ、今度は風景中心よりも、人物を撮った写真が見たいと思った。エロ全開写真もまた“アラーキー”らしいんだけど、この表紙の写真がとてもすてきで、思わず購入してしまった。家に帰ったら届いていた。すでに夜遅かったが、見始めてしまった。

荒木夫人陽子さんは1990年に亡くなられている。この写真集は陽子さんとの出会いから、1971年に結婚し、約20年生活を共にしていた女性の、実に様々な表情を切り取った作品だ。写真に写っている女性は、“恋人”であり、であり、愛人であり、少女であり、婦人であり、娼婦であり、淑女”であり、でもそのどれでもないようでもある。その収まり切らなさに引き付けられる。
   

   
陽子さんという奥様の持つ、どこか奥深い何かを見つめているような視線や表情の力、“アラーキー”がそれを追い求め、引き出す力。無防備に自分をさらしている陽子さんの魅力と、それを可能にしている二人の信頼関係や愛情の深さ、と言うか、一人の男と一人の女の、結びつきの深さを感じる。
   
   
取り立てて美人というわけでもないのだけれど、魅力的な、とても魅力的な表情をする人だなぁと思う。“アラーキー”が惚れ抜いたのが伝わる。その思いが伝わるから見ているうちに陽子さんに惚れてしまう。だからなおさら最後は泣けてくるんだけど。

陽子さんの文章も載っている。
   
「また明日も来てあげるから、と言いながら彼は私の右手をギュッと握りしめる。それは握手というより、夫の生命力を伝えてもらっているような感じで、私はいつも胸がいっぱいになった。彼の手は大きくて暖かく、治療に疲れて無気力に傾きそうになる私の心をゆさぶってくれた。」
   
  
既発の写真集からのセレクションだけど、宝物のような一冊。

(写真及び引用文はすべて本書より)

2009年4月19日日曜日

「東京人生 since 1962」荒木経惟

  
1981年、「写真時代」という新しく過激な写真誌が登場した。この「写真時代」に載る写真は当時としてはかなり過激で、一個の写真集ではなく、雑誌にヘアヌードが載っているということで話題になったし、実際に警視庁に呼び出されて注意を受けたりもしていたこともまた、話題となっていた。

ここで過激なヌード写真を掲載していた人、というのが写真家荒木経惟氏の第一印象である。正直なところ、エッチな写真雑誌でエッチなヌード写真を載せている、エッチな写真家というイメージを持っていたのだ、時分自信を“天才アラーキー”と言った、り丸いサングラスをしてたのも、キワものっぽく思えたし。

ただ荒木氏の白黒ヌード写真は、ヘアが写っているとかいないとかではなく、写真自体がエロかった。そのエロさも、何と言うか作られたエロさではなくて、日常的な生活感まで取込んだその女性の全体が写されているような感じ。扇情的なエロ写真とは違って、どこか痛々しさみたいなものまで伝わってくる写真。

東京人生SINCE1962」(荒木経惟、バジリコ株式会社、2006年)は、そんな“アラーキー”の日常の風景や人物が1960年代から現在に至るまでまとめられた写真集だ。
   
   
確かにヌード写真もあるけど、ほとんどは日常的なスナップ写真である。これがいい。作り物じゃないんだけど多くを語ろうとしている一瞬を切り取った感じがする。そしてどこかに温かさとか不穏さが潜んでいる。

  
白黒写真の力を実感するとともに、やっぱり“アラーキー”のエロス全開写真も併せて見たくなった。あの痛々しさ、不穏さ、淫靡さ、つきまとう生と性と死の影。

写真につけられた簡単なコメントもとてもいい。
   

(写真はすべて「東京人生 since 1962」より)

2009年4月17日金曜日

「オール・マン・リヴァー」

その雄大な川の流れを思わせる豊かな声で、朗々とウイリアム・ウォーフィールド(William Warfield)が歌う「Ol' Man River(オール・マン・リバー)」だが、映画の華やかさとは違い、しっとりと聞かせる歌声が心にしみる。
   
  
しかしその歌声に酔うばかりでなく、やはりどんなことが歌われているか気になった。ネット検索すると、南部訛りあるいはアフリカ系アメリカ人訛りを残した、かなりくだけた歌詞もあったが、比較的わかりやすく書かれた歌詞を選んで、訳してみた。

それでも「he don't say nothin'」のように本来「does」のところを「do」を使ったり、「don't ... nothing」という二重否定(標準的にはdon't ... anything)があったり、「You」を「Ya」と書いたりなど)と、くだけた部分は残っているけれど。

「Ol' Man River(オール・マン・リバー)」

オール・マン・リバー、オール・マン・リバー 
その川はきっと何かを知っている でも何も言ってはくれない 
ただ流れていく 流れていくだけだ 

ジャガイモを植えたり、綿を植えたりもしない 
そしてそいつらにとっちゃ、誰に植えられたかなんてすぐ忘れちまう 
でもオール・マン・リバー、流れ続けておくれ 

おまえと俺、つまり俺たちは汗を流し力を込める
体はあちこち痛み、苦痛で壊れそうだ 
あの船を運べ、その荷物を持ち上げろ 
ちょっとでも酔っぱらったらブタ箱行きだ 

俺は疲れ果て仕事にはもううんざりだ 
生きることにももううんざりだ、でも死ぬのは恐い 
だからオール・マン・リバー、流れ続けておくれ

(写真は「ザッツ・エンタテインメント」より)

Ol' Man River, that Ol' Man
River He must know somepin', but he don't say nothin' 
He just keeps rollin', he keeps on rollin' along

He don't plant taters, and he don't plant cotton
And them what plants 'em is soon forgotten
But Ol' Man River, jest keeps rollin' along

You and me, we sweat and strain 
Bodies all achin' and wracked with pain
Tote that barge and lift that bale 
Ya get a little drunk and ya lands in ja-ail

I gets weary and so sick of tryin' 
I'm tired of livin', but I'm feared of dyin'
And Ol' Man River, he just keeps rollin' along

(「Loveの無料歌詞検索」より)

2009年4月16日木曜日

「ガメラ3」における死

  
「ガメラ3 邪神<イリス>」覚醒」(1999年)からも、早10年が過ぎようとしている。そこで少し普通と違った角度からこの作品への思いを述べてみたいと思う。以下ネタバレ内容なので未見の方は、ここまででご遠慮しただくとして。

ガメラの生体戦闘兵器としての造形的な美しさ、脚本的に詰め込み過ぎな感はあるが、「わたしはガメラを許さない」という意外性のある設定、次々と展開するストーリー、複雑な人間模様、個性的なキャラクター、渋谷のギャオスとの戦いや京都のイリスとの戦いでの迫力の特撮シーン、手に汗握るCGでの空中戦、下からあおるなどのキャメラワーク、史上初となる屋内(京都駅)での最終決戦、ズダボロになる肉弾戦。まさにみどころ満載。「ガメラ1」、「ガメラ2」と比較した時、映像の“密度”が違っていた。

ただし肉弾戦としての戦いは、以前書いたように昭和ガメラの動物的な、相手の急所である首に噛み付こうとする生々しさはない(2008.12.10「ガメラの目」ご参照のこと)。「ガメラ3」では、イリスを前にして、ガメラがどう戦おうとしているのかがわかりにくい。それはつまりこれから命の奪い合いをしようという緊張感が、両者とも欠けている感じがするのだ。嵐の中の燃える京都という劇的な舞台が整っているのに。

バルゴン、ギャオスを相手にしていた頃の昭和ガメラなら、あれほど易々とイリスに腹部を撃ち抜かれないだろう。まして右手を自ら吹き飛ばしたなら、緑色に血みどろになりながら、左手(左前足)だけで立ち向かい、しつこくしつこくイリスをかみ殺したかもしれない。

イリスをボロボロにするガメラの一撃も、動物的な生々しさはない。そう、昭和のガメラはきちんと「殺すこと」、「死ぬこと」というものを、怪獣同士の戦いの中でも表現していたのだと思う。

余談だが、近年の「ウルトラマン」シリーズも、やられた怪獣はいつしか爆発するようになっていた。ウルトラセブンの頃はアイスラッガーで首や胴体を切断されて「死んで」いったのに。ここからも「死」が消えていっているのだ。

比良坂綾奈もドラマ的には、死ぬべきであったと思う。
   
  
彼女の怒り、悲しみ、苦しみはガメラを憎むことで生きる糧になっていた。両親が殺されたことがガメラのせいだと思う憎しみで、強く生きてきた。

「あぁ、あれはガメラがいけないんじゃなくて、ギャオスという敵を倒すために仕方なかったことだったんだ」と気づくことで済むようなものではないはずだ。

そんなことはわかっていながら、両親の死や、親戚の家に引き取られるという過酷な運命に対しての、やり場のない思いをガメラへの憎しみに変えて、自分と弟を必死に守りながら生きて来たはずなのだ。

そして彼女が死ぬことで、その憎しみは見ているわれわれにつきつけられる。なぜ彼女は憎しみを抱いて死なねばならなかったか。なぜこんな理不尽なことが起こったのか。彼女の人生とはなんだったのか。どうすれば彼女を救えたのか。

そこでこそガメラの悲しみというか、ガメラが背負っている業に共感できるのだ。敵を倒そうとして人が死んでいく。守ろうとした人間たちが死んでいく。ガメラへの憎しみを持っているのは綾奈だけではないだろう。戦えば戦うほど憎しみも増大していく。それでも戦うことを止めざるをえない。それが自分に課せられた使命だから。

そこまで踏み込む一歩手前で、エンタテインメント側に踏みとどまったのが「ガメラ3」であろう。それは突然死ぬこと、不条理に死ぬこと、命をかけて戦い死んでいくことの無念さ、悲痛さが実感として残っていた「戦後の昭和」でない今は、もはや描けないことなのかもしれない。

でもね、そうやって無念さを抱いて死んでいくことや、無念さをはらして死んでいくことをきちんと描かないといけないんじゃないだろうか。そうしたことに、子供の頃に触れておくことって大事なんじゃないだろうかと思う。その時は意味はよくわからなくてもいいのだ。

名作「ゴジラ」で、逃げ遅れた母子が「もうすぐお父様のところへ行くのよ」と自分らの死を覚悟して抱き合う場面の壮絶さ。涙が出そうになる。恐らく父親は戦死したのであろう。この親子にとって父の死は何だったんだ、そしてこの親子の死は何なんだろう。この親子の人生とは何なんだろう。そこには戦争への、破壊者への怒りが込められている。

「ガメラ3」はいろいろ細かな課題はあるにしても傑作だと思う。しかし一点だけ、比良坂綾奈を生かし、ガメラを許させたところだけは、悔やんでも悔やみ切れないほど残念な結末であった。「ガメラ3」ファンの皆様、ごめんなさい。



「良いセックス悪いセックス」斎藤綾子

タイトルからして本屋でカウンターへ持っていくのに気が引ける「良いセックス 悪いセックス 」(斎藤綾子、幻冬舎文庫、2003年)。でもポップなデザイン、そして飾らないストレートな文章が心地よい一冊。
   
   
内容はsexに関係したエッセイ&短編小説だ。エッセイには悩み相談室や気に入った本の書評的なものも含まれる。ただし、sexを題材にしたエッセイはかなり過激。

でも過激と言えば過激なんだが、暗くならずあっけらかんとしている。自然体である。sexを素材としながら、男女間の気持ちのズレみたいなものも描かれる。特に小説の方ではその恐ろしさまで。

まず巻頭の「超セックスライフ・チェックシート」が面白い。本文を読むと「斎藤綾子度・チェックシート」だとわかる。
  
「□ オナニーを17回連続でやって、目眩がしてやめたことがある。」
  
とか
  
「□ 胸に手を当てるよりも、股間に中指を入れて考え事をする方が多い」
  
には笑った。全体に、妙に淫靡になったり説教臭くなったりしない軽やかさがある。

エッセイは、著者本人の体験を赤裸々に語った実体験に基づいたもので濃い。著者の気の強さや、一見無軌道に見えるsexライフも、逆にそこまではっきり恋愛とか生殖とかと線を引いてしまうことへの潔さみたいなものを感じて心地よい。もちろんsexに恋愛感情は要らないとか言っているわけじゃないんだけど、でも

「そっか、恋愛って持続させなければいけないもんじゃなかったのよね。私ってば、いつから長続きしなくちゃ恋愛じゃないと思うようになっていたんでしょうか。バカです、ホントに。
 そんなわけでホットな恋愛は持続しないし、恋愛を持続させようとすればセックスは冷めるってことを私は身を持って体験しました。そして出た結論は、浮気も行きずりも、タブーなんてクソくらえ!!ってことです。メロメロに惚れた相手と気持ちいい関係を続けるには、やりたいことはバンバンやるべし。自分の感覚がさびるような関係なんか、コッパになって当然ザンス。」(本文より)

なのだ。それまでは恋愛にこだわらずsexをしまくっていた彼女が、一人の相手との恋愛に挑戦し6年間頑張った末の文章である。あらゆることを試した末の境地みたいでスゴイ。

もちろん見習いたいわけではない。でもそういうsexもあるし、そういう恋愛もあるんだって思うのだ。「好き」という感情を「恋愛」や「結婚」にリンクやシフトさせないで、そのまま「好き」でい続けるという関係っていうか。

大好きな人を大切にしたい。そして大好きな人とのsexも大切にしたい。そういう結論じみたことに落ち着こうとする本ではないんだけど、そんな気持ちになった本だった。肌をくっつけ合うことに対して幸せを感じる感覚が、お互いの間でどのくらい近いかって、とても大事なことだなぁとつくづく思った。

なんかこう元気をもらった気がするのであった。かなりエッチな本ではありますが。
  
  

2009年4月5日日曜日

もし昔の彼女だったら

睡眠薬と安定剤と催眠剤を飲んだんだけど、
まだ効いてこないので、
こんな夜中だけどちょっとおつきあい下さい。
まぁ起きてる人もあんまりいないと思うけど。


昔つき合っていた女性がね、とってもおしゃべりな、
一緒にいる時はほとんどニコニコと
相槌を打っていればいいような、
相槌しか打たせてもらえないような人だった。

わたしは、自分から面白い話とか
シャレた話とかするのは苦手だったし、
彼女は彼女で、そうやってしゃべりまくれることも
一緒にいる楽しみの一つみたいだった。

彼女はいつも仕事のことを話していた。
でも不快にはならなかった。
いろいろ上手くいかないことの怒りや焦りや不満を、
わたしにぶつけようとしているわけじゃなかったから。
ただ自分の中にしまっておけないから
吐き出してるみたいな感じ。

それも身振り手振りを交えて話すから、
第三者として聴いてると面白くて笑ってしまう。
そうすると
  
「あ〜、そうやって笑い飛ばしてくれるとスウっとする」
  
と言って喜んでくれた。
ヘタにアドバイスとかすると逆に怒られてしまう。
信念のある人だったから、
よく頑張ってるって自分の決断と行動を
ただただ認めて欲しかったんだ。

そんな彼女がある時、こんな話をしてくれた。
   
「このないだお友達とお茶したんだ。でもその人、実は今『うつ病』で、面白おかしく仕事で失敗したこととか話しても、そのことじゃなくて、話してるわたしを見て『前向きでいられてうらやましいな』って言うんだよ。どうしていいかわからなくなっちゃった。」
福祉の世界で働いている人だった。 
でも精神障害ではなく、知的障害、肢体不自由な方の専門家だった。
その分野では利用者とのコミュニケーションが抜群にうまい人で、
他の職員からは食べないものも、
彼女の声かけとスプーンコントロールだと食べられてしまう。
  
「『神の手』とか言われちゃった」
  
なんて言っていたけど、
実際そうなんだろうと思った。

今のわたしが、その彼女と今もつきあっていたら、
いったいどうだったろうと思うんだ。
彼女はとにかく前向きな人だった。
そして現場を愛しながら上昇志向のある人だった。
わたしが主任や主幹になったと言ったら、
さぞかし喜んだろうと思う。

さすがにこんなわたしに向って
  
「気合いだ、がんばれ」
  
とは言わなかったろうけど、
どうしていいかわからなかったかもしれないし、
一緒にいることに疲れてしまったかもしれない。

だからね、今そばにいてくれるのが、
な〜こだっていうのがうれしい。
と、まあそれが言いたかったわけでね。

しかしこうして毎日、何かしら書き綴っているのは、
自分が何かしていないと
生きている実感が持てないからかもしれない。
  
この半年間、
こうやって今しか書けない自分の歴史を
書き残しているんだって思うことで、
何もできない自分、
職場や社会からはみだしてしまった自分のプライドを、
かろうじて保ってきたんだと思う。
  
それも読んでくれている人がいるから励みになったんだ。だから半分はな〜こに感謝、
残りの半分は読んでくれいているみなさんに感謝だ。
   
おかげでなんとかここまでやってこれたし、
いろいろなことを振り返ったり考えたりする
大切な機会をもらえている。
ありがとう。勝手なことばかり書いているのに、
本当にありがとう。

ビールが効いてきた。少し眠くなってきたかな。
話を聞いてくれてありがとう。
そろそろ寝てみようか。
  
  

2009年4月4日土曜日

「勝訴ストリップ」椎名林檎

   
勝訴ストリップ」は2000年に椎名林檎が発表したセカンドアルバムである。1998年「歌舞伎町の女王」、「ここでキスして」のヒットはなんとなく耳にしていた。その巻き舌を入れた独特の歌唱法と、キツさのある声質が自分のどこかに引っかかっていたんだと思う。

2000年は、新設校の準備として駆けずり回った疲労困憊の状態で、そのまま新設校開校になだれ込んだ年。準備で体力的にも精神的にも皆かなり参っていたのに、その状態がスタートだという過酷さ。それも机上の計画を、生身の、それも複雑なバックグラウンドを持つ生徒相手に、一つ一つ実現させていくと言う綱渡りな年。

新設校開校とともに閉校になる学校が全日、夜間定時と2校も同居するという非情な環境の中で、日々が戦いだった。そんな時聴こえてきたのが「ギプス」。悲しいメロディー、やさしい声、そして静から動への一気に展開してからの力強い声、ハードなバック。染みる歌詞。

 「あしたのことは わからない
  だからぎゅっとしていてね ダーリン」

このドラマツルギーはプログレじゃん。ほとんど知らない歌手なのにこの一曲でアルバムを買った。やっぱこの雑多性と、どんなジャンルも突き通してしまうボーカルの力。凝ったサウンドプロデュース、言葉の組み合わせが作り出す不思議な世界、プログレじゃん。いや、ジャンルはいいんだ。プログレ魂を揺さぶる音だということだ。

驚くのは、これだけハードで様々な音が実に緻密に詰め込まれたバックに、歌が全然負けていないということだ。そして巻き舌に感じられるようなぶっきらぼうな部分と、ガラス細工のような弱さが同居していること。音と詞と声がグサグサ刺さってくる。

そして技術的な面も含めて、彼女は圧倒的に歌が上手いのだ。バックに負けないのは声質だけではない、それだけの迫力と表現力を彼女が持っているからだ。彼女の歌の上手さはもっともっと注目されていい。

「貴方に降り注ぐものが譬え雨だろうが運命だろうが
            許すことなど出来る訳ない
                此の手で必ず守る
                そばに置いていて」
(「闇に降る雨」より)

この頃の歌詞はまだ比較的分かり易いストレートなものも多かった。2000年の辛さは、この「勝訴ストリップ」で切り抜けることができたと言っても過言ではないのだ、大げさに聴こえるかもしれないけど。

以来林檎病である。どのアルバムも傑作だけど、当時の自分を支えてくれた点で本作の印象が強い。聴くと力が湧いてくる。

もちろん東京事変も好き。
  
   

コミックバンドとしてのドリフターズ

  
数日前にドリフターズ特番をやっていた。まだまだドリフ再評価は続いているんだなぁ。お笑いブームが続いていると言っても、ドリフの計算と稽古によるコントと、それを支えるプロデューサー、舞台美術、そして会場のお客さんが、一体となって繰り広げるタイプのお笑いは、今はないからね。

今の主流は身近なところで見つけたオモシロネタ、一発ギャグ的なものが多い。漫談もコントも、パターンが似てるから、誰がやっても同じように見えてしまう場合もある。

「あ〜んあんあ、やんなっちゃった〜、あ〜んあんあおどろいた」というフレーズで時事ネタを披露するウクレレ漫談の牧伸二が「牧伸二のウクレレ人生」(牧伸二、みくに出版、1995年)で、「テレビで見られる芸は本当にバリエーションが少ない」と嘆いている。そして新しいコミックバンドが登場しないものだろうかと憂いている。

ドリフだって、もともとはミュージシャンからコミックバンドになったという経歴を持つ。コミックバンドとは、楽器演奏や歌を絡ませながら笑いを取るタイプのお笑いグループのことだ。
   
  
古くはドリフの師匠格クレージー・キャッツを筆頭に、ドンキー・カルテット、殿様キングス、玉川カルテット、モダンカンカンなどが競い合っていた。1960年代から1970年代のことだ。

ドリフの加藤茶とクレイジーのハナ肇のドラム合戦なんていうのもあったのだ。ドラマーとしての腕も鍛えられた二人だから、最初はドラムソロの掛け合いである。それがだんだんドラムセットから離れていろいろなものをたたき出す。二人ともウロウロしながら、それでもリズムを崩さず床とか椅子とか叩いて回る。最後にマイクまで叩く、といったギャグ。瞬間芸的爆笑じゃないんだけど、なんかほのぼのと可笑しいのだ。

時代の笑い、時代のテンポというものもあるだろう。番組作りにかけられる時間やお金の制約も当時と今では違うだろう。わたしだって「エンタの神様」も「爆笑 お笑いレッドカーペット」もiPod用に録画するくらい好きな番組である。

でもふと「テレビで見られる芸は本当にバリエーションが少ない」という牧伸二の言葉を思い出してしまう。でも今ドリフターズタイプのお笑いができるのは…スマップぐらいか。

そんなこと言ったら色んなところから石が飛んでくるかな。

そしてもう一つ。「大正テレビ寄席」の牧伸二の漫談コーナーは3分だったという。「そしてある日、気がつくと3分以上のウクレレ漫談はできなくなっていた」と。これではマズいと思った彼は、飛び込みでのキャバレー回りで芸の幅を広げ、何分でも舞台に立てるようになっていく。

観客の反応を見ながら芸をやっていくことの大切さ。冷めた目で見ている観客をも魅きつけ煽っていく技術。人ごとながら今のお笑いを楽しみつつ、ちょっと個人的にはこの点は気になっているのだった。

あ、それはストレスにはなりませんから。

昨年春の「呼名簿」作り


昨年の今頃は新入生を迎え入れる準備をしていたんだけど、取りあえず気にかかっていたのは呼名であった。咳が取れない不安もあったし、
壇上で一人スポットライトを浴びる緊張もあった。名前を間違えずに、言いよどむこと無く、はっきり聞こえるように呼名したかった。

それには「呼名簿」を作りたかった。新入生名簿はできている。クラスごとに並べられよみがなもふられている。それを持っていけば事足りることではある。
でも直々に名前が呼ばれるというのは、あなたはこの学校の一員となったんですよっていうことを、本人も保護者の方も、一番実感する場面だ。こちらもそれなりの気合いを持って臨みたいと思った。「おめでとう」っていう気持ちが伝えられるような余裕を持ちたいと思った。

そういう時にわたしが頼るのが自作のモノなのだ。この時は自作の「呼名簿」を作っていった。もともと紙一枚持って壇上へ上がるのはみずぼらしいと思っていたし。

文房具屋へ行き表紙が厚手のクリアーファイルを買った。表紙は厚手だが透明だったので、ブルー地の表紙と裏表紙を作ってはめ込んだ。見た目にも美しい「呼名簿」ができあがった。小脇に抱えて座席から壇上に上がる時にもいい感じだ。
  
  
各クラス1枚で10クラス分のシートが入るタイプを選んだ。クラスごとの名簿は大きめの字で、漢字とよみがなを並べて横に並べた。演台の暗い明かりでもはっきり確認できるためだ。

難しい読み方や、言いづらい名前にはマーカーで印をつけて、注意するようにした。そして何度も呼名の練習をした。

こういう自作のモノを作ると、俄然やる気になるのが自分の性格なのだ。結局自分なりに頭の中で段取りの整理をしているんだと思う。整理しながらすでにイメージトレーニングしているのだ。だから人が作ったモノでは自分の頭の整理にはならないのだ。余計な時間がかかるけど、納得して事に当たるには結局そうすることが一番なのだ。

呼名は無事終わった。返事がすぐ返ってこない生徒には、会場を見渡し、ちょっと待ってあげる余裕すらあった。自作の「呼名簿」が、自分の自信をそこまで高めてくれていた。

でも、だから仕事が増えちゃうんですね。すでに出来上がっているものを自分がやるときには一旦アレンジし直すから、納得はいくんだけど時間がギリギリになる。そんなやり方をしながら、同僚の抱える問題までなんとかしようと頑張っていたら、遅かれ早かれパンクするのは目に見えていたのかもしれないな。

だからそういう生き方だから仕方ないんだって。
   
   

2009年4月1日水曜日

「それって、立派な『うつ』ですよ」安倍裕貴

旧年度の終了も手伝ってか、自己嫌悪も減り、精神的な落ち込みや不安定さも特になし。自分は「うつ」ではないんではないかと思って「抗うつ剤」服用を止めて3週間。それも最近の安定した状態へ影響してはいないようだ。ありがたい。

しかし崖っぷちまで行ったことは確かだと思う。それもきっと何年もかけて、崖っぷちまでジリジリと追い詰められていったんだろう。疲労の抜けない不調な状態が続いていたことは確かだし、最後の混乱状態は尋常ではなかったし。

今の課題は睡眠障害。そこからくる疲労感。そして首、方、腰の痛み。そして“ストレス性二日酔い”と名付けた、頭痛と吐き気。さすがに夜も眠れないとか一日中ベッドの中で苦しむというような、ひどい“ストレス性二日酔い”は最近はなくなったが、軽度なものはまだ残っている。

これは自律神経のバランスが狂い、必要以上に筋肉が緊張して起こる、「うつ」からくる症状にとてもよく似ている。だから「うつ」ではないにしろ、まだまだ崖っぷちからそう離れているとは言えない。
    
「それって、立派な『うつ』ですよ―自分を責める人たちの処方箋」(安倍裕貴、実業之日本社、2008年)は、働き盛りの10年間をうつと闘い、フリーライターとして仕事をしている現在も、抗うつ剤は手放せないという著者による本である。

「私の場合はとにかく身体中が痛くなって座ることもできなくなりました。そして頭痛で目が覚めるのです。そんな状態ですから何かやろうという気が起きません。意欲という意欲はすべて削がれ、頭は真っ白になって、最悪のときにはトイレに行くと言う簡単な行動さえもできなくなってしまったのです。日がな一日、部屋の隅で膝を抱え、最悪のことばかりを考えていました。声をかけられても意味を理解することができず、いつも責められているような気がして、刺激を受けるたびに泣いていました。」(本書より)

壮絶なうつ体験である。その著者がうつについて、その原因や恐ろしさ、そして解消法をまとめたものが本書だ。解消法とは言っても、著者は少しでも心配なら、まず精神科や心療内科の受診を勧めている。「プチうつだから、まだ大丈夫」が危ないのだと警告する。「うつとは百人いれば百通りの原因と病状と治療法がある」と考えるからだ。
   
   
本書に最初に出会ったのは近くの図書館であった。自分の状態をどう理解すればいいかわからず、うつ関連の本を片っ端から手に取っていた頃だった。そして本書のことが強く印象に残った。しかしまずきちんと自分なりの理解をしたいと思い、精神科医などの専門家による本を買い集めた。しかしこの本のことが忘れられず、結局昨日購入した。

「医師のカウンセリングでも何度も『あなたに非はないのですよ』と言われ、そのたびに気持ちを強く持とうと思っていたのですが、効能は一、二週間くらいしか続きませんでした。しかし私の母の言葉(「あなたは何も悪くない」)は深く心に残りました。一番理解して欲しい人に理解してもらえた喜びは、かくも大きい物なのです。」

こうした実際にご自身がうつと闘って来た著者だから言える言葉も多い。そして上記のようにポイントになる部分がボールドになっている体裁も見やすく、心に残り易いのだ。

そして読み終わってみて、なぜ専門家ではないこの本にこれほど魅かれたかがわかった気がする。わたしは、この本の温かさと優しさにあふれた丁寧で正直な文章に、癒されたのだ。
  
   

新年度開始は検診から

今年の新年度開始の4月バカの日は、
例年の「職員顔合わせ」だの「異動教職員研修」だのではなく、
定期外来検診日。
   
あ〜今日だけはいつもの辛い検診もうれしい、ホッとする。
   
朝一で診察券を予約ボックスに入れて帰って来た。
歩いて数分のところに通院している病院があるのは、
とてもありがたい。
  
一旦自宅へ戻り、約2時間後に再び精神科前に行けば、
まあ30分〜1時間で診察の順番がやってくる。

その間に洗濯機を回して、洗濯物を干すことまでできる。

よしよし。


今日の検診のポイント
■現在の状況
・3つの生活目標(2時までに寝る、8時までに起きる、外出する)

 
・睡眠薬&抗不安剤を服薬すると夜中に目が覚めなくなった
 (実はビールをいっしょに飲んでいることもあるかも、は内緒)

 
・気分的ひひどく落ち込むことはなくなった
 (実は抗うつ剤の服薬を前回から3週間止めているのは内緒)

  ・最近は“ストレス性二日酔い”状態は出なくなった
  ・年度が変わって自己嫌悪が減った。しかし復帰する気力はまだない。
 未だに職場や仕事の夢を見るし。

  ・ブログを中心にやりたいことが出て来たが、やりすぎに注意が必要。
 
■お願い
・鼻炎薬の影響もあって眠い/寝てしまうことがある
・あると気持ちが安定するので、催眠剤を増やして欲しい

ぐらいかな。

検診の際に主治医から「最近どうですかにぃ?」って聞かれると、

どこから話していいか分からなくなって
頭が真っ白になっちゃうから、
事前に整理しておくことはとても大事。