2010年7月25日日曜日

「いま、先生は」に反響300通

朝日新聞に連載された
「いま、先生は」に
約300通の反響が寄せられたという

自殺した人
過労死した人
悩みを聞いて上げることもできない同僚や上司
逆に苦しんでいる担任を追いつめるような
職場の雰囲気や体制

若手教員や新任教員に対して
酷いことを言う先輩教員は昔からいただろう
わたしも新人の頃に大変なクラスを持たされ
当時の学年主任から
「生徒の扱い方、○○先生に教えを乞うてみればぁ?」 
と皮肉を言われて
震えるほど傷ついたことがある
(学年主任としてオレの立場がないんだよ)
  
と、その人が言いたがっているのが透けて見えた
あなた自身にはアドバイスの言葉はないんですね?
そう言いたかった

確かにわたしの力不足だったとは思う
でも今思うのは
だからこそ学年主任や先輩教員が
新人をフォローしなければいけないんじゃないかということだ
今思えばその人は
“学年主任”という肩書きが付いていても
それだけの底の浅い人だったということだ

それでも一方で
「新人はどんどん失敗して経験を積んでいっていいんだよ。
 今の若い人たちは失敗することを恐れ過ぎてるな。」
   
「集まった生徒が特に大変な子たちなんだ。
 一生懸命やってるんだから
 もっと堂々としていて良いんだよ。」
と言ってくださった先輩教員たちもいた
それで何とか頑張れたんだと思う

今現場がギリギリなのは確かだと思う
だからこそ人の面倒を見てくれる先輩とか
人の苦労を気遣ってくれる同僚とかいう
個人の資質に頼るのではなく
きちんとチームで対応できる体制作りが必要なんじゃないか

朝日新聞の記事にも
チームであたることの重要性が触れられていた
前任校の不登校生徒の多い学校でも
学年を越えたチームで生徒にあたることが多かった

そのチームを否定した現任校や
その管理職には
残念ながらもう信頼を失った
なにが「特別支援校(養護学校)の文化」だ
危機意識の無さ極まれりである
現任校に戻る意欲が休職当初からなかったのは
そんなことも大きかったんじゃないかと思うのだ

チームだからこそ
担任は心理的に追いつめられずに
多くの視点や意見を聞きながら
何とか打開策を見つけていくことができるし
担任を越えた部分での援助も受けることができる
逆にまたチームの力で
担任個人が暴走することを止めることもできるのだ

一方で命を絶つほどに追いつめられながら
他方で“ハレンチ教師”みたいな
ゴシップ記事で叩かれる教員という職は
今瀕死の状態だと思う
  
日々格闘している教員にとって
学校は誰からも
社会からも同僚からも管理職からも
そのがんばりを評価されない場所になってしまった
学校は“見捨てられた戦場”である
  
だからこそチームの力が必要な時なのだ
皆が苦しいからこそ
仲間を孤立させてはいけないのだ
励まし合い支え合うチームを
自然発生的にではなく
意識的に体制として作っていく必要があるのだ
  
そのためにはそうした体制作りを推進できない管理職は
いくら教育委員会ウケが良くても
いくら保護者ウケが良くても
現場には必要ない

あぁなれるものなら
頑張っている教員を支える
教員のための相談相手みたいな職に就きたいなぁ

2010年7月24日土曜日

エロイム・エッサイム

「エロイム・エッサイム
   エロイム・エッサイム
   我は求め訴えたり
   エロイム・エッサイム
   エロイム・エッサイム
   朽ち果てし大気の精霊よ
   万人の父の名の下に行なう
   我が求めに応えよ」
   
     
水木しげる原作の悪魔くんが
自ら黒魔術を研究して
魔法陣から悪魔を呼び出す際の呪文
確かこんな感じじゃなかったかな

小さい頃覚えた
こういう意味のない言葉って
けっこう記憶に残っているものである

ちなみに「エロイム・エッサイム」とは
実際の黒魔術に使われた悪魔召還術の呪文なのだが
  
 「ヘブライ語の『エロヒーム イッシーム(炎の神よ)』

だとか
  
「神よ、悪魔よ」
   
という意味だとか言われているが
はっきりしていないんだそうな

しかしこんなマンガが少年誌に載り
小学生がむさぼり読んでいたのだ
  
日本のマンガ文化は凄いものがあるなぁ

2010年7月20日火曜日

Eテレの「2355」

ぼぉ〜っとテレビを観ながら
ウクレレを弾くともなく鳴らしていたら
NHK教育で「2355」という番組をやっていた

“教育”的な雰囲気のまるでない番組
NHK的脱力系番組である
どことなく「ピタゴラスイッチ」に似ているかな

番組では細野晴臣や小泉今日子が
アニメや映像のバックで歌を歌っていた

23:55から5分間の番組だから「2355」
NHKだからできる不思議番組だ
朝の0655っていうのもあるようだが
こちらは無理だなぁ

寝る前のひととき
和ませていただきました


2010年7月19日月曜日

新バンドとしてのYesの魅力

現在のYesは実に精力的にライヴ活動を行なっている
 2008年に結成40周年を迎えるにあたって
いわゆる黄金期のメンバーでのツアーが期待された
しかしキーボードのリック・ウェイクマンと
リードボーカルのジョン・アンダーソンが病気のために参加できず
リックの長男であるオリバー・ウェイクマンと
カナダ人のベノワ・デイヴィッドを代役として参加し
以来この5人による布陣でツアーをこなしているのだ


そしてこの代役メンバーによるYesが良いのである
まずベノワ・デイヴィッドが素晴らしい
声質や声量そして声域さらに歌い方までもが
まさにジョン・アンダーソンその人であるかのようなのだ
これはYesサウンド的にはとても大事なことであり
かつとても難しいことである

“代役”という立場だからオリジナリティーは出せないのだろうが
ここまで違和感無く歌いこなす力量は凄い
まさに逸材だと思う

さらにその地味なたたずまいも良い
ちょうどピーター・ガブリエルからフィル・コリンズにチェンジした
ジェネシスに似ているかもしれない
リードボーカリストのカリスマ性が消えた分
バンドとして新しい一体感というか
ロックスピリットが甦った感じなのである

バンドは「Fragile(こわれもの)」の名曲「南の空」や
トレヴァー・ホーンがボーカルを取っていた
アルバム「Drama」からの曲なども取り上げている
要するにロック的なドライヴ感のある曲を
積極的に演奏しているようなのだ

そこには
“黄金期”のメンバーでかつての名曲群を
懐メロのように演奏していた時の老成感はない
現在の“ベノワYes”は
今のバンドのポテンシャル内で
精一杯ロックしているのがわかる
それは華美な装飾を取り払ったステージングからも見て取れる

代役以外のメンバーも
何か活き活きしているのだ
きっと演奏していてもとても新鮮なんじゃないかと思う

2010年も精力的にツアーをこなしている期間限定Yes
無理を承知で
ぜひ今のツアーメンバーでYesの新作を出して欲しいと思う
Yesならそんなこともあり得そうだし
  

2010年7月18日日曜日

ビール人体実験中


先週の月曜日の夜に腹痛になって
火曜日から木曜日まで
食欲もなくカラダもダルい
不調な日々を送っていた

ただこれまでの
“二日酔いシンドローム”とは違っていた
だから腹痛が去った後は
頭痛や吐き気などに苦しめられはしなかった

そこで不思議なことがひとつ
そんなことを書くと
いかにも不謹慎なように思われてしまいそうだが
やっと腹痛も治って
でも何も食べる気がしなかった火曜日のこと

突然カラダがビールを欲しがっていると思ったのだ
かつてふざけて空腹になるとビールでごまかすという
“ビールダイエット”なるものをやっていたことがある

空腹ではないんだけど
空っぽのお腹がビールを欲しがっている感覚が
その時の感覚にとても良く似ていたのだ

ちなみに水分はあまり摂っていなかった
コーラの炭酸は胃にきつくて
アイスコーヒーの方がまだいいなと少し口にしていた
本当はトマトジュースが飲みたかったのだが
あいにく切らしていたところだった

それで誘惑と欲求に負けてビールを飲んでみたのだ
そうしたらこれが美味しかったのである
さらになんと
その後も二日酔い状態にならなかったのだ
つまり本当に久々にビールを美味しく飲めたのだった

これは凄いことなのだ
まるで月曜の腹痛で
カラダの何かがリセットされたような感じである
カラダのどこかのスイッチが切り替わったみたいだ

以来様子を見ながら
水曜金曜土曜と毎日缶ビールを一本飲んでいる
今のところ頭痛などの不調は出ない
梅雨明け前からだから
暑くなったからということでもない
第一昨年まではそんなこと関係なく飲めなかったのだから

にゃ〜ことおいしくビールを飲みたいというのが
今年の夏の目標であった
でもそれは遠い夢だと思っていた
もちろんまだ予断は許さない
でもちょっと夢が近づいてきてくれたみたいだ
思い起こせば3年前の9月に突然飲めなくなって以来
これだけ連日ビールが飲めたのは初めてなのだ
非常にわかりやすい回復のバロメーターであることも
また確かなのである

さて無理のない範囲で人体実験を続けていこう
これほど実感できる復調の証はないのだから

2010年7月16日金曜日

タマラ・ド・レンピッカ

すでに展覧会は終わってしまったが
遅ればせながら
タマラ・ド・レンピッカ(Lempicka)に興味を持った
たまたまつけていたテレビで取り上げていたのだ

展覧会を知らせるパンフレットの
緑の服の女性(「手袋をした娘」1929)は気になっていた
  

何とも言えぬ力強い線と鮮やかな色
そして鋭く美しい目
キュビズムの香り漂う強い影や
背景のオブジェとの不思議な一体感

その生涯も1920年代という激動の時代
激変する社会の中で芸術と社交と恋愛に生き
やがて才能がありながら
自分を見失っていく彼女

そして若くして描いたアール・デコ期の作品だけが
再評価され続けるやり切れない晩年

しかしその一瞬の煌めきは
観るものを釘付けにする
わたしも思わず「レンピッカ」の本を注文してしまった

テレビの解説で面白かったのが
例えばピカソは女性が変わると画風が変わる
しかしレンピッカは
そうした内面の変化ではなく
流行を追うことで生き残ろうとし
結局時代の変化とともに
葬り去られてしまったというところ

しかし
時代を捉えることは並大抵のことではない
だからそれは輝きを失わず
日の目を見るチャンスをうかがっているのである
そして時代の時々に再評価され続けていく

そんなことを考えさせられる絵である

2010年7月12日月曜日

民主大敗とW杯

非常に不謹慎なことを言いたいと思う

民主大敗の理由は
もちろん鳩山民主党の迷走のツケと
民主党公約自体の詰めの甘さに対する不信感と
もちろん消費税率アップ問題と
その件で首相発言のブレに見える
党と首相との一体感の欠如などが
挙げられるんじゃないかと思うのだ…がしかしである

わたしは
大敗の少なからぬ要因となったのは
管総理大臣の選挙演説の様子にあると踏んでいるのである
声をからし
まるでだだっ子のように手を振り回し
泣き言のように必死な面持ちで訴えるその姿を
テレビで見るにつれ
管総理のリーダーとしての風格が
どんどん崩れていったように思うのだ
現首相として
そして民主党党首として
党の公約・方針や自分の発言を含めて
もっと堂々とした態度で
何事にも動じないかのごとく話を説くべきではなかったか

しかしその姿を見ていて感じたのは
なり振り構わぬような痛々しさと
党と切り離された孤軍奮闘ぶりだった
なんかとても頼りなく情けない感じ

熱意を持って演説することと
泰然自若であることは相反しない

本田と遠藤のシュートに歓喜したわれわれは
意味のある結果を残した後の
自信と喜びに満ちたパフォーマンスにしか
もう目を奪われることはないのである
そしてまたわたしたちは
チーム一丸となって目的を達成しようとする
真摯な姿勢と行動力を知ってしまったのだ
チームとしての一体感の素晴らしさを
感動を持って共有してしまったのだ
それは民主党のチームとしての一体感のなさにも
敏感に反応したように思う

相対的に自民党の谷垣総裁の安定感が増してしまった
逆に取ってつけたようなパフォーマンスの無意味さは
幸いにもすっ飛んでしまったかのようだ
  
もちろんあくまで相対的にである
相手が自滅したから結果的に勝ち残ったに過ぎない

さてこれから増々各党の公約が通りにくくなる
ますます政策は動きにくくなり政治は混乱していく

たぶん今必要なのは
言葉だけの未来像や戦略ではなく
これまでよりも確実に前に進んだという
実感であり手応えを共有することなんだろう

例え目標のベスト4に到達できなくても
これだけ元気をもらったサムライ・ジャパンの戦いのように

今回の選挙結果には
W杯の歓喜が逆に政治への不満や苛立ちとして
現れたように思うのである
ある意味見事なタイミングだったと言えよう

2010年7月2日金曜日

「アバター」

   
「ターミネーター2」、「タイタニック」の監督ジェイムズ・キャメロンの話題の最新3D対応ムービー「アバター」。遅ればせながらDVDで(つまり2Dで)観たのだ。3Dということに話題が集まり過ぎている感じがするが、2D(つまり従来の鑑賞法)でも十分に面白かった。

ストーリーが、“利己的で自己中心的な白人が先住民族の異文化を理解しようとしないまま物質的利権を武力で手に入れることへの疑問”という、トラウマのように何度も繰り返されるテーマが、また持ち出されているいう批判もわかる。


あるいは戦争で足が不自由になったもと海兵隊員が、アバターとリンクすることで、彼にとっては仮想現実の中で自由を手に入れ、異民族の異文化の中で“選ばれし者”となり、族長の娘と恋をし、やがてパンドラの全種族を率いてその存続をかけた闘いを指揮するという、“仮想現実でのヒーロー体験”であるというヴァーチャル逃避感覚を秘めていることもわかる。


それでもこの映画は非常に良く出来た実に面白い映画であった。例えば「ポニョ」がつっこみどころ満載ながら、何かもの凄いエネルギーに溢れている映画であるのと同じように、「アバター」も、おそらく感じる映画なのだと思う。理屈は単純でいい。筋書きも人物描写もある程度単純でいい。実はそれほど単純ではないのだけれど、一見単純に見えるところが監督のうまいところである。そしてその中で擬似的に様々な体験することの面白さが凄いのだ。

  
   
恒星間飛行を実現し、先住民ナヴィと人間のDNAを組み合わせてアバターを作り上げている科学のレベルから考えて、あの軍事力はあまりに現代的、非未来的ではないかという点も、だからこそ戦争を擬似的に体験でき、現実に戦地に向う人間たちに共感する余地を残すことが可能となる。彼らも未知の惑星で必死で生き延びようとしているのだ。

もちろん無骨な鉄のかたまりのような人間側の兵器がパンドラを飛ぶことで、一気にパンドラのリアル感が増す。このリアル感は例えば円盤のような未来兵器では感じられないリアル感である。そのメタリックさがパンドラの自然の美しさを一層際立たせることにも役立っている。つまりその感覚を得ることが優先された選択だということだ。


ナヴィたちとの一大決戦に臨む際に“適役”の大佐が部隊を鼓舞する場面があるが、ストーリー展開上ナヴィ側に感情移入している中で、彼らの不安そうな顔が実は意外と印象に残る。第一大佐本人も別に責められる立場ではないのだ。任務を遂行し部隊の無事を優先することを職務とする軍人なのだから。


鉱物資源開発を行なうRDA社の責任者も、任務を全うしようとしているだけだ。彼は言う「学校を作り英語を教えた。でも関係は良くならない。」と。これも印象に残った言葉だ。そう彼もまた自分たちの論理の中で最善を尽くしているとも言える。しかしまさにこの自己中心的な価値観の狭さこそ、未開なものたちを文明化するという口実の下に自分たちの文化を押し付けることで異文化を征服するという、典型的な征服者側の姿勢を端的に表している。


では研究者たちはどうだろうか。彼らも実はナヴィ達の文化やパンドラの世界に学術的関心を持っているだけである。ナヴィたちの文化を理解し共有し、その結果としてナヴィやパンドラを開発から守ろうとしているわけではない。


資本家、軍人、研究者。誰もが任務を遂行しようとしているだけで、実はナヴィの文化をそれぞれの狭い世界なりに理解しようと努力したとも言える。しかし彼らにはナヴィの世界の豊かさは理解できない。唯一主人公だけがそうした目的を何も持たないまま現地へ派遣された故に、どの立場にも組みすることが出来ないまま、自然とナヴィの生活に溶け込み、その豊かさに触れることが出来る。


そして結局異文化を受け入れることができたのは、アバターとしてまさにナヴィと同じように植物や動物、そして先祖たちと交感できるカラダを持ち得た主人公だけである。逆に言えば「異文化理解」と口で言うのはたやすいが、現実にはその生活、肉体、思想、空気、全てを通して感じ取るモノであって、それは非常に難しいことが示されているのである。

   
   
しかしその主人公を通して、観ている観客も、最初はちょっとグロテスクに思える青い巨人(身長3m)たちに次第に親近感を覚えていくのだ。この気づいたら異文化に抵抗を感じなくなっているという感覚。気づいたら族長の娘ネイティリ(右図)が美しく魅力的に見えているという変化。この自然な、でも不思議な体験がこの映画のキモだと言っても良い。異文化を受け入れることを声だかに叫ぶのではなく、静かにそして知らぬ間に疑似体験させてしまうこと。

その異文化を持つ相手は、アメリカインディアンでもアフリカンでもオセアニアンでもエイジアンでもない。そうした歴史的事件と切り離して、誰もが第一印象として気味の悪い相手を、知らぬ間に受け入れて行くという体験ができるようになっている。そのあたりの作りも非常にうまい。


美しいパンドラの世界。血みどろな描写は避けた適度にリアルな人間側の迫力ある攻撃場面。AMPスーツと呼ばれるパトレーバーのような戦闘ロボットも登場するが、基本的な重火器はガス弾、ミサイル、マシンガン、火炎放射器、ナパーム弾、そしてサバイバルナイフ。まさに現代の戦争である。しかしそのリアルさが大事なのだ。フラッシュバックのように現実の戦争場面を思い浮かべる。でいながら、まさに戦争がそうであるように、現場で戦っている者同士に善も悪もないんじゃないかという感覚も残る。そうしたことがさらりと描かれる。

全体としては勧善懲悪的ストーリーとして理解してしまうこともできる。「ポニョ」を人魚が恋をして人間になるかわいい映画として観ることもできるように。でも後味はそれほどすっきりしない。冒険活劇を見終わったような爽快感はない。それは「ポニョ」や、あるいは同じく暫定的な戦闘終結で終わる「ナウシカ」のように、映画は終わっても物語は終わっていないからということもある。


しかしこの感覚は、おそらくもっと根本的なところで、様々な問いの中に取り残されるから生じるものだろう。この世界に放り込まれたら自分はどう行動するのか。何を正しいとするのか。異文化同士が出会う時、相手を理解するとはどういうことなのか。


大佐を悪者と非難することができるのか。RDAの責任者や科学者たちを、狭い価値観に縛られていると非難することができるのか。そういうあなたやわたしだって、第三者から観たら強烈な価値観に縛られているかもしれないではないか。ならばナヴィの文化を本当に理解するにはナヴィになるしかないのか…。


では自分たちの文化を相手に理解してもらうにはどうすればいいのか。現場の人間に問題があるにしても、アンオブタニウムという希少鉱物に「瀕死」で「植物のない」地球の存亡がかかっていたとしたら…。


あるいはまた、キリスト教的宗教観とは異なる精神世界。物質的豊かさではない心の豊かさ。同胞と繋がり祖先と繋がり、自然の摂理の中で大いなるエイワ(パンドラに張り巡らされた植物ネットワークで神に近い存在)の庇護と導きに生きる暮らし。 そういう生き方が西洋文明の外側には、たくさんあったのではなかったか。


もちろん大空を飛び回り、異界の風景や動植物の奇妙な美しさや雄大さに触れ、まさにその世界にいる感覚に浸れることも、この映画の大きな魅力だ。ハレルヤ・マウンテン(下図)なんて最高である。まさにロジャー・ディーンが憤慨するのも理解できる、ロジャー・ディーン・ファンとしてはたまらない景観の数々。


   
そうした映像的魅力とストーリー的わかりやすさと、そこに内包された問題の深さとが、絶妙なバランスでエンターテインメントとして成立しているのが、この「アバター」だと言える。傑作である。

本筋とは関係ないのだが、ナヴィ達との大決戦に向けて人間(スカイ・ピープル)が出撃する場面で、飛び立つ機体を見送る整備兵の帽子が離陸の風圧で飛ぶ場面がある。ちょっとしたことなんだけど、手を抜いていないなぁと感じてしまった瞬間であった。


2010年7月1日木曜日

やっぱりメイラックス復活

先週末の土日の頭痛後も
今週はずっと調子が悪いこともあって
もう薬も仕方ないかということで
メイラックス1錠/1日を復活させた

昨日限界を感じて
メイラックスが効くかわからないまま
とにかく状況を変えたくて
薬の量を戻したのだ
そうしたら何となく今日は安定気味
やっぱり思い込みであれ何であれ
メイラックスは今のところ
飲んでいた方がいいんだなぁと思った
断薬はまだまだ先でもいいや

今日もしっかり1錠飲む予定
これが効くのであれば
明日はさらに安定してくれるかな
まったく何度も何度も同じことを繰り返して
何やってんだろうわたし…

まぁそれだけ薬と体調の関係が
わかりづらいということなんだけれども…

さすがに今回はちょっと間を空けて
メイラックス服薬は
しばらく続けようと思う

仕事辞めてから
ゆっくり薬のことは考えてもいいんだしね