2010年9月30日木曜日

不調続けども最後の日が暮れていく

役所での30分に渡る話もなんとか乗り切りった
担当の方とお話するのは
自閉くんの就学前だったから
もう一昔も前のことなのだなぁ
  
その時の資料の確認という感じで

「それでお仕事は今もお変わりないですか?」
  
と突然聞かれたのだ
一瞬つまったんだけど

「実は体調を崩しまして教員の仕事を辞めることにしたんです。
   今日付けで...」

担当の方の目が丸くなった
「辞めた」だけでもびっくりなのに
「今日で」でびっくりも倍増であろう

最後に
  
「お父様もお大事になさってください...。」
  
と言われて話は終わった
  
何となく今日が教員生活最後に日だということを
しっかり確認されたような出来事であった
でも優しい言葉をかけてもらって
うれしかったのである
  
こうして9月30日が終わろうとしている
のぼせたような不調は依然続いているけれど
感無量なり
  
  

2010年9月29日水曜日

ニュースはやっぱりもうワイドショーである

ニュースを見ていると気が重くなる
今に始まったことではないけれど
ワイドショー化が進み
それが定着しちゃった感じがするからだ

ワイドショー化とは簡単に言えば
“単純化&扇情的”っていうことである
  
押尾学被告の取り上げ方が異様にデカイのが
ワイドショー的というのはまだわかりやすいが
尖閣諸島をめぐる中国の報道もまた
ワイドショー的である
もちろん民放だけでなくNHKも同じだ
  
中国人の一般市民にインタビューする
反日感情をむき出しにした言葉が
まったく予想通りに返ってくる
それを流してどうしたいのだ?
  
尖閣諸島といきなり言われても
歴史的にどういう経緯があって
両国がどういう認識でそれぞれの主張をしているかなんて
普通はわからないだろう 

そうしたら「自分の領土が侵された」と言われれば
感情的に反発してしまうのは仕方ないことだと思う
そんな映像を垂れ流せば
中国人に中国人は怒らねばならぬという意識を与え
さらに日本人の反中国感情をも引き出す
  
それを「中国国民の怒りは治まりません」っていうのは
結果的にマスコミが煽動していることにならないか
結果的にというかむしろ“何も考えずに” だ
  
ジャーナリズムの基本は
物事の多様性に光を当てることだと思う
様々な視点や立場から
物事の全体像や本質に迫ろうと姿勢が重要なのだ
   
わかりやすい方向に流れるのが“ワイドショー的”であるとすれば
そんなに物事は簡単に語れないんだということを示しながら
より入り組んだ方向に向うのが本来のジャーナリズムだと思うのだ
  
実際問題として
尖閣諸島問題なんて
早く終わってくれないと困ると思っている中国人だって
たくさんいるはずだろうに
単純な話SMAPの公演延期に激怒しているファンだって
少なくないだろう
  
それがどうして「反日感情が爆発している中国」という
扇情的でシンプルなイメージに落ち着いてしまうのか
  
ワイドショーだからと思えば理解できる
でもそれでいいのか?
「ニュース」にはまだ「ワイドショー」以上の影響力がある
そこが恐い
そういう点ではNHK「ニュース」の責任は重いと思うぞ
  
日本のジャーナリズムは
そうした使命や責任といったものに無自覚になってしまった
プライドを無くしたとしか思えない

“尖閣諸島問題に困惑する中国人たち”っていう内容で
「クローズアップ現代」やりませんか
  
罪滅ぼしですよNHK様
  

検診で「退職宣言」

「退職の方向で行くお話しをしてきましたが
   明日の9/30をもって退職となりました。
   
   ちょっと気持ちや体調が不安定になってますが
   次にどうしようかという不安も気負いもなく
   自分の決断が実行されていくことを
   淡々と受け入れている感じです。
   
   たぶんもう2年前に倒れた時に
   すでに気持ちは決まっていたんだろうという気がします。
   
   それが衝動的な思いではないことを確認し
   気持ちの整理をし自己肯定感を持って辞められるまでに
   この2年が必要だったということのように思えます。
   
   また辞めるという決断や行動のためのパワーを蓄えるのにも
   時間と試行錯誤が必要だったんだと思います。」

というようなことを
これほどきれいに整理できないままに
主治医のジェロ先生にお伝えした
  
辞めるという決断が実行にうつされんとしているという話を聞いて
ジェロ先生はちょっとショックだったようだ
しかし多くを聞かずわたしの決断を受け入れてくれた
  
「そうですか〜…。
   でも良く決断されましたね〜。
   不安定になるのは、そりゃしょうがないですよね〜。
   でも前向きな気持ちでいられているというのは
   本当に良かったですね〜。」
  
よし
何となく「辞める」ための関門を
また一つクリアした感じだ
  
たぶん処方していただいている薬は
もう飲まないと思うけど
まだまだお世話になります
  
よろしくお願いしますのだジェロ先生
  
  

2010年9月28日火曜日

退職にあたってあれこれ考えたけれど

ふと思ったのだ
退職にあたって
職場の皆様に退職にあたってのご挨拶と
菓子折りの一つもお送りしようかと
  
「本来ならば私自身がお詫びと御礼を申し上げに
   自ら出向かねばならぬところではありますが、
   まだまだ思うように動けませぬ身ゆえ
   書面にて代えさせていただきとう存じます。
   皆様の今後のご活躍とご健勝を……」

とか何とか文章を想像しているうちに
誠に誠に失礼かとも思うのだが
面倒くさくなっちゃったのだ
  
確かにわたしが病休を取ることで
当時の現場はひどく混乱しただろうし
病休を取り続けることで
常に講師対応という不安定な状況を
余儀なくされたであろうことは理解している
迷惑をかけたことは確かなのだ
  
でも反面
連続新設校の人柱みたいなところもあるわけだ
人一倍働かねばならない職場で
その要求に十分応えたという自負はある
  
それに恩給を貰っている傷痍軍人だとか
慰謝料を貰っている労災被害者だとか思うことで
自己肯定をしようとしてきたのに
ここにきて形式上とは言え自分を卑下することもなかろうと
そんな気持ちになった
  
人によったら
  
「オレの人生どうしてくれるんだ?」
 
とか
  
「こうして去っていくオレに誰か何かいうことはないのか?」
 
とか
怒ってもおかしくないくらいのことだろう
第二の人生とか10年早い定年とか言ってたって
実際仕事が続けられくなっちゃったのは事実なんだし
まぁそう言えるような人なら
最初から適応障害とかにはならないんだろうけどね
   
それにおそらくもうわたしを知っている人は
全体に占めるパーセンテージ的にはかなり低いはずだ
病休当時から教員規模もかなり膨らんでいるし
すでに異動している教員も大分いるだろう
  
ということで何もせず
ただ己の治療に専念しているということにして
静かに消えていくのである
仮にもしわたしの不義理を言う人があろうとも
構わないのである
   
前期末の今週木曜日
校長からの“指示伝達”の会で
きっとさらっと報告されることであろう
  
それでいいのである
いろいろ考えたがそれがいい
それでわたしは満足である
  
  

2010年9月26日日曜日

松屋でスティーヴ・ハウ?

首の不調はないのだが
ちょっと風邪気味なのかノドが痛む
しかし体調安定しないなぁ
  
まぁ以前に比べれば苦しむことは減ったから
高値不安定って感じか
いや高値でもないわなぁ
  
今日は昨日とはうってかわって良い天気
おかげで午前中のバス写真引率は
いつものバス停近くで音楽を聴きながら
楽しく小一時間過ごせた
  
そう言えばそこは松屋の前なので
いろいろな人が店に出入りするのを目にすることになる

意外とお年寄りが多いなぁと思う
安くて早くて一人でも入りやすいからねぇ
女性もけっこう利用しているなぁ
  
とか思って缶コーヒーを飲みながら立っていたら
そんな例えをするのもマニアックなんだけれども
スティーヴ・ハウにとっても良く似た人が
目の前を通り過ぎて
松屋に入って行ったのだった…
  
もちろん今の老けたスティーヴ・ハウである
笑っちゃいけないが「ふふっ」と笑ってしまった
と思う

笑うことでもないんだけど
あまりに突然だったもので…
 
松屋に入るスティーヴ・ハウ…
  
もちろんYesのギタリストであるSteve Howeだ



2010年9月23日木曜日

「COCOON」と少女性

今日マチ子の「COCOON」には
陰惨な現実と柔らかな少女性が共存していると書いた

その少女性とは
幼さや無邪気さとともに
想像する力と
想像の世界に遊び
それを現実に拮抗させることのできる力だと言えるだろう
  
それは繭(cocoon)という比喩で
この物語の大きな柱になっている部分だ

しかし再読しているうちに
もう一つわたしは別の“少女性”も感じてしまった
  
それは地獄のような体験をした後の主人公のラスト
「新しい世界」と題された最終章の
何かこう意外なほどにあっさりと
“その後”を生きている主人公の姿にである

もちろん彼女の中には
描かれていないトラウマが潜んでいるのかもしれない
しかしそれは触れられることはない
むしろ悲しみや怒りを引きずっている様子が
あまり感じられないのだ
彼女の家族は皆無事であり
終始笑顔な主人公
例えば母との再会の場面

「みんな…
   無事でよかったわ!」
  
「うん!」
  
「学校のおともだちは…
   残念だったわね…」
  
「うん…
   でも戦争だったから…」

そして親子がにこやかに海岸沿いを歩くカット
傍らに咲くのはひめゆり部隊を連想させるユリの花
次に思い出の中に浮かぶうつろな表情の
死んでいった友だちたちのカット

現実の悲惨な記憶そのものが
逆に空想上の世界の出来事であるかのようだ
  
「家族が無事で良かった」とか
「戦争だから(したかなかった)」といった
狭く閉じた世界に完結させてしまうかのようなラスト

彼女たちの死はいったい何だったのかといった問いかけも
死んでいった友と生きている自分との間の苦悩もなく
前向きと言えば前向きなんだけれど
ためらいもなく現実をそのまま受け入れ
冷酷なほどに淡々と気持ちを切り替えているように見える

それをもまた“少女性”と呼ぶとしたら
この作品は主人公が
“少女性”だけを武器に
陰惨な現実に耐え
受け入れ
乗り越える物語だと言えるかもしれない

そしてまたこの冷酷さを孕む少女性は
今日マチ子の他の作品からも感じられる
大きな特徴の一つでもある
  

2010年9月22日水曜日

「COCOON」今日マチ子

  
知人から今日マチ子という
漫画家のことを教えてもらった
「今日マチ子のセンネン画報」というサイトだ
  
数日おきに雑誌1ページ分くらいの
短編作品が掲載される
2ページ分くらいになる時もあるし
1枚の絵だけの時もある
  
共通しているのは会話がないことだ
でもとても豊かな物語が
その絵やコマ割りに込められていて
別の時間がふっと流れてくるような感じなのだ

その今日マチ子の長編単行本が
 「COCOON」である

舞台は戦時中のある島
もちろん誰もが沖縄を想像するだろう
そこで戦況の激化に伴い
女学校に通う主人公たちが
看護隊として戦地に赴くことになる

「センネン画報」に通じる不思議な空気感
描き込みの少ないやわらかな線の世界
そこに踏み込んでくる残酷な現実
  
次々と死んでいく仲間たち
目の前の死という現実に
空想という繭(cocoon)で必死に身を守る
10代の少女たち

陰惨な場面を
現実のこととして描きたいという思いが
そのグロテスクさに物語が飲み込まれないようにと
ギリギリのところで踏みとどまっているような絵
  
だから
戦争の悲惨さや理不尽さを描きながらも
あくまで物語は少女の物語なのだ
少女の等身大の視線ですべては描かれる

一個連隊の玉砕を淡々とした描写で描いた
水木しげるの「総員玉砕せよ!」に匹敵するような
圧倒的な読後感に包まれる
   
ただ「総員玉砕せよ!」とは違って
主人公は兵士ではなく少女なので
戦争を批判したり
自分たちの行動に疑問を抱いたりはしない
  
目の前の現実に翻弄されながら
お国のために戦い
お国のために自決する
   
戦争の陰惨な現実の重さと
淡く柔らかな少女性が
一つの物語の中で
奇跡のように両立している
  
また凄い本を読んでしまった
  
  

2010年9月20日月曜日

髪の毛にクモ

電車に乗っていた時のこと
比較的混んでいるけれど
すし詰め状態ではない車内で
iPodで音楽を聴きながら雑誌を読んでいたのだ
  
そうしたら
目の前の女性の髪の毛に
大きさ1㎝に満たないほどのクモがたかっていた
クモは髪の毛を一生懸命上っていた
でも髪の毛の中へ入ってしまいそうな危険もあった
  
さてどうします?こんな時
もちろんその人はたまたま乗り合わせたまったくの他人で
年齢的には中年くらいの女性である
  
悩んだ
わたしの降りる駅はあと2つ先だった
見なかったことにして降りてしまえばいいか…
でも髪の毛の中にクモがうごめいているなんて
イヤだろうなぁとも思った
人によったら卒倒しそうな出来事かもしれない…
  
時間にしては数秒か数十秒だと思うけど
迷いに迷ったわたしは
iPodをはずし
目の前の女性の肩を軽く叩いて話しかけたのだ
  
「あのちょっとごめんなさい、髪の毛にクモが…」

言ってから焦った
それこそ卒倒するような人だったら
それだけで絶叫&大騒ぎになりかねないではないか
  
しかしその方は落ち着いて

「えっ?クモですか?」

と言うと
慌てるでもなく自分で髪の毛を払い始めた
ありがたいことにクモは彼女の見える足下へと落ちて行った
  
そうなのだ
そのクモの行く先を見て思ったのだ
クモが見えなかったらもしかすると
わたしはへんてこな理由を付けて話しかけ
突然肩に触れた不審人物になっていたかもしれない…

そんなことを思っているうちに
わたしが降りる駅に到着した
何事もおきず
わたしは無事ホームに降り立った
  
でも“適応障害・うつ病”的に見れば
こういう気持ちになって
行動に移せたってことを喜ぼう
それだけ今はとっても“普通”になっているわけだから
  
  

祝!フィル・コリンズ復活


Genesisのドラマーで数々の名作を残し
ピーター・ガブリエルに替わって
リードボーカルを担当するようになった男
   
さらにボーカルソロアルバムもヒットさせて
同時にジャズロックバンドBrand Xにドラマーとして
その超絶技巧でも名を馳せ
“世界一忙しい男”の異名を取っていた男
  
フィル・コリンズ

2002年には突発性難聴を患い
2008年には音楽業界からの引退を表明
腰の病気と手首の関節の疲労から重なったと言われ
2009年には肩と首を手術したことがわかり
今現在ピアノを弾くこともドラムを叩くこともできなくなっている
  
そんな彼が9月にニューアルバムをリリースする
内容はプログレッシヴ・ロックでも
ジャズ・ロックでもない
  
彼はすでにGenesisも脱退し
ソロ歌手としての地位を確立していた
数々のヒットシングルをチャートに送り込み
映画音楽なども手がけていた
  
楽器が弾けなくなった彼に残されたのは歌
その歌という表現の原点に立ち戻った
モータウンのカヴァーアルバムとなったのだそうだ
  
Genesis時代の名作ライヴ
セカンズ・アウト(眩惑のスーパー・ライヴ)」で
ピーター・ガブリエルの曲を彼が歌うのを聴くと
やっぱり上手いのである
  
その歌の上手さがGenesisの同じ曲を
オリジナルの怪奇なイメージから
幻想的で心地よいサウンドへと変化させているのがわかる

アルバムタイトルは「ゴーイング・バック
ぜひとも手に入れなければと思う1枚だ
内容以前に
彼の憎めない感じが好きで
応援したくなっちゃうのである
  

2010年9月17日金曜日

病休突入2周年

早いと言えば早い
もう2年も経ったかという気もする
でもまだ2年前のことかとも思う
あの日は遠い昔のような気もする

前日の16日
とにかく職場から離れたくて昼で早退し
そんな自分はどこかもう限界な気がして
とにかく「診断書」をもらって
きちんと休まないといけないと思った

そして17日
朝からまず地元の保健福祉センターに電話し
地域の心療内科クリニックを紹介してもらう
そこで地域の大型病院が閉鎖して
そこを利用していた人たちが
一斉に地元クリニックに殺到したため
どこも予約待ち状態だろうと言われる
  
確かに3〜4カ所電話してみたが
2ヶ月から3ヶ月待ちとのことで愕然としたものだ
今日にでも診察してもらって
正式に病休が取れる手続きをしたいのに…
  
そこで予約制ではない現在の精神科に
翌日の午前中飛び込んだのであった

しかしその時すでに
医者に行って薬をもらって
とにかく1日でも早く現場に復帰しなきゃ
という思いはなかった
  
仕事を放り出してしまったことへの自責の念は強かったけど
たぶん自分を守ることが先決だとわかっていたんだろう
行かなきゃと思うのに行けないという時期は過ぎていたとも言える

以来2年間の間に
一度として復帰しようと思ったことはない
バーンアウトの程度はそこまで徹底的だったということだ
  
それでも自己嫌悪に飲み込まれなかったのは
たぶんそれまで教員という仕事の中で
不登校や不適応(いわゆるやんちゃ系)の生徒と接し
無理しなくていい頑張らなくていい
世間のレールから外れることもある
それでも大丈夫
苦しむことはないんだということを
伝える側だったことも大きいと思うのだ
  
そういうものの見方や
心の持ちようが
いざ自分の身に同じようなことが降り掛ってきた時に
役に立ってくれたんだろうと思うのだ

今は同じ言葉を
わたしと同じように仕事に行けなくて苦しんでいる方々に
伝えたいなぁ
  
苦しかったら頑張らなくていい
頑張ってきたことは自分が一番良く知っているはず
自分を大切にしなきゃダメなんだよって
そして休むこと
医者にかかることを恐れちゃいけないよって
  
  

2010年9月15日水曜日

バーンアウト症候群

バーンアウト症候群(Burnout Syndrome)。または日本語で「燃え尽き症候群」と呼ばれるものがある。以前からその名は知っており「適応障害」や「うつ病」との関係が気になっていたが、今日少しだけ調べてみた。

そうしたら今更だけれども、どうもわたしはコレじゃないかという気がしたのだ。

「燃え尽き症候群という用語は、アメリカの精神分析学者が提唱したもので、当初は、医師や看護師、教員、ソーシャルワーカーなど対人専門職のメンタルヘルスに関する概念でした。
   これらの職にある人は、長期間にわたる他人に対する援助の過程で、精神的なエネルギーが大きく要求されるにもかかわらず、相応の満足感や達成感が得られないことが多く、そのストレスから生じる極度の心身の疲労と感情の枯渇状態を、『燃え尽き』という言葉で表現したのです。
   燃え尽き症候群は、慢性的なエネルギーの使い過ぎが引き起こす、精神的に極度に衰弱した状態なのです。」

もともとは献身的努力の中で満足感や達成感などの結果が得られない限界を感じたことからくる、心が折れてしまったような無力感や絶望感と、それに伴うストレス性の体調不良を言うものだったようである。

しかし今は、目標が達成されないだけでなく、逆に大きな目標を達成してしまった後の虚脱感や、次の目標を見つけられない焦燥感、疎外感を原因とするものも広く含めているようだ。うつ病のきっかけになりやすいとか、外因性うつ病の一種とか言われたりもする。

しかしまたうつ病とは区別して

「うつ病との違いは『自分は何をやっても駄目だ』というような自責感を持つことがないところです。」 (「バーンアウト症候群」より)
  
と書かれているものもある。

仕事に全力を注ぎ、しかし大きな進展や成果もなく、その努力を評価してくれる人もいない。確かに病休前のわたしの置かれた状況を、わたしはそう捉えていた。そしてそれでもブレーキを踏まず、メーターで残りのガソリンを確認することもなく、全速力で走り続け大破した…。そんな感じだった。
  
確かにその一時期だけを見れば今の職場の状況に対する「適応障害」と言えなくもない。でも自分では違うんじゃないかとずっと思っていたのだ。「自分は何をやっても駄目だ」とは一度も思わなかった。

それにこの歳になって、それなりに経験も積んで、自分にも自信を持っていたにも関わらず、こうした状況になったというのは、やっぱり「適応障害」というよりは「バーンアウト」したんだという方がしっくりくる。もっと何年も前から少しずつ積み重なって、心身が追いつめられてきていた結果なのだきっと。
  
燃え尽きちゃったんだから、大変なのは当たり前だ。弱った火を再び大きくすることはそれほど難しくない。でも一旦消えた火をもう一度灯すには、手間と時間がかかる。ちょっとやそっとじゃエネルギーは回復しないのは、仕方のないことなのだ。
  
抗うつ剤も効かなかったわけである。わたしは「バーンアウト症候群」ではあるけれども、「うつ病」にはなっていない。そういうことだ。

それに実は両者の厳密な区別は関係ない。「バーンアウト(燃え尽きる/精根尽き果てる)」っていうイメージがしっくりくるのだ。
  

2010年9月11日土曜日

U型ヘッドフォン「ATH-CK500M」をゲット!

懸案のU型ヘッドフォンをやっとゲット
オーディオ・テクニカの「ATH-CK500M(ブラウン)」である
  
インナータイプのヘッドフォンは音漏れがしずらいから
周囲に迷惑をかけないだろうという点と
やっぱり低音がちゃんと鳴ってくれるから
聴いていて音のバランスや迫力が違うなぁとは思っていた
   
   
でも今まで使っていたモノは
ちょっと耳栓みたいな感じになってしまって
耳の中の空気が密閉されるような
違和感というか恐怖感があったのだ
何かの拍子に急にヘッドフォンが引き抜かれると
鼓膜を痛めちゃうんじゃないかみたいな…
  
ところがこんどの製品は
インナータイプなのにそういう違和感がない
イヤピースの大きさとか特殊な形状のお陰かもしれないけど
非常に快適に音楽を楽しむことができる

しかし一時は本当にU型がなかったのだが
取りあえずこの製品が出てくれてありがたいのである
そしてさらに使い勝手が良いとなると
探した甲斐があったと言うものだ
  
色はちょっと渋いブラウンにしてみたのであった

「Sound it! 5.0 for Macintosh」

昨日の不調も今朝起きたら大分回復
何でしょうねぇ不調になりやすい金曜日
“魔の金曜日”みたいになってますねぇ

さて以前からやろうと思っていた
ウクレレ教材のデジタル化計画実行である
20年前のテープデッキを取り出して
オーディオケーブルでパソコンにつないだところで
ハードウェア的な準備は完了していた

ウクレレ教材というのは
ウクレレ教室で使っているオリジナル教則本の
「ハワイアン・ソング集」だけ
歌&演奏をカセットテープにライヴ録音したものだ
これをデジタル化してCDに焼き
iPodでも聴けるようにしたいのである

そこで「Sound it! 5.0 for Macintosh」で
サウンドデータを取込んでみた
取りあえず全曲一気に取込んだら
約50分500Mくらいのファイルになった
   
   
これを元に音質に手を加えたり
曲ごとにサウンドファイルを分けたり
タイトルを入れたりして
CDに焼くのである

今日の“お仕事”はそれをメインにしようかな
出来上がったら
ウクレレの講師の先生にプレゼントするのだ
  
なんと先日残り時間「546時間」で始まったレンダリングが
その後に一旦「900時間」くらいまで上がり
今日やっと「555時間」まで戻って来たのだ…
   
もう連続レンダリング3日目である
確かに一番時間のかかる「空&雲」部分なんだけど
いったいいつ終わることやら
だからCG作りはちょっと休憩なのだ
  

2010年9月10日金曜日

「夢をあきらめるな」って恐い

「夢をあきらめるな」とか
「努力すれば夢はかなう」とかいう
ポジティヴなメッセージが
声高に発信されるとなんだか恐いのである

「友だち百人できるかな」みたいな恐さかな

友だち百人できて楽しい人もいれば
孤独を愛する人もいるわけで
友だちというか“親友”がいないと
自分が人としてダメなんじゃないかって
思わされちゃうような雰囲気が恐いんだな

同じように「夢をあきらめるな」
まず「夢」を持つことが前提になっているところから恐い
自分の将来のことなんてわからないし
「夢」なんてコロコロ変わるものだし

それを「あきらめるな」と念を押されると
一度夢にしたら
結果を出すまで(かなうまで?)
とにかく努力し続けるのがエラいみたいな感じがする
  
こういうメッセージは
すでに自分なりの夢を持っていて
そのために努力をしている人に向って言うものだ
まだ結果は出せないけれど
あきらめちゃダメだよって励まし支える言葉だ

何をしていいかわからない
自分のこともわからない
得意なこともあんまりないし
だからそんな自分に自信もない
そういう大多数の若者にとって
このメッセージはとてもキツい縛りになる気がするのだ

「ともだち(親友)」に加えて「夢」も必要なのかと
彼らは精神的に追いつめられていく
どちらもない自分は
人としてダメなんじゃないかと
  
そんな「甲子園出場(夢)」に向って
仲間たち(ともだち・親友)と
励まし合いながらあきらめずに進んでいくなんて
非日常的なくらい特殊な状況でしかないんだから
  
「夢」なんてもっといい加減で良いのである
コロコロ変わってもいいじゃない
それより無謀と思われるようなことを「夢」見る
心の余裕が大事なんじゃないかなと思う 
逆に自分を縛ってしまったら元も子もないんだし
その時その時に興味を持ったり
熱中したりできるものに出会えればそれでいいし
一つのことに打ち込むことも大切かもしれないけれど
色々なことに興味を持つことだって大事だし
  
そんなちょっと世界を広げようとしている人に
「もう少し頑張ってみると楽しい世界が待ってるかもしれないよ」
って言ってあげるぐらいがいいところなんじゃないかなぁ
それに「夢をあきらめないでがんばっている人」よりも
「夢」なんて持てなくて迷い続けていて
一寸先も闇のような中を
取りあえず自分の足で一歩一歩進んでいる人の勇気を
もっとちゃんと讃えてあげたい気がする



2010年9月5日日曜日

ケータイmedia skin、そろそろ寿命かも……

media skinという
デザインを重視したauの携帯を
使い始めて早3年が過ぎた

小さいキーが最初不自由で
特に親指の付け根が
腱鞘炎ぽくなってしまった時もあったけど
今はデザイン的にも大きさや薄さ的にも
とてもシンプルで満足な一品なのだ

ところが最近「ICカードが読めません」
みたいな警告が出て
電源が切れてしまったり
メールの送受信が知らない間に
できなくなっていたりするのだ
これには困った…

今携帯はあまり面白いデザインがない
iPhoneなどのスマートフォンの進出や
携帯端末の価格上昇などの影響なのか
かつての華やかさや熱気が感じられない
 
デザイン的にも似たり寄ったりだし
変にゴテゴテとした飾りや
携帯顔負けの写真機能などはいらないのだ
わたしが好きな小さめな
ストレートタイプのものもほとんどない

取りあえずauショップで「点検」してもらおうかな
今iPhoneにも他のスマートフォンにも興味ないしなぁ
そのお金があるならiPod160Gが欲しいくらいだ

さて復活してくれるだろうか
確かに3年は今の携帯としては
寿命なのかもしれないけれど…

ちなみに今まで使っていた携帯&PHSは
全部手元に残っている
どれも思い出の品々だから手放せないのだ
  
そんな中でもデザイン的にはトップクラスだなこれは

2010年9月4日土曜日

新作CG「Alone in the Ruins」

街全体が廃墟と化した
ここは死都
  
地表は海の浸食を受けて
街全体はやがて
海の藻くずと化す運命

そんな廃墟のとあるビルの屋上に
少女が一人
取り残された悲しみにうちひしがれているのか
全てを見届けようと時の流れに身を任せているのか

廃墟を包む光は柔らかい

廃墟には雑居ビルの猥雑さと墓地の神聖さが潜んでいる