2024年1月13日土曜日

「ゴジラ-1.0」の絶妙なゆるさ!


 「ゴジラ-1.0」が大人気だ。
日本のみならず、アメリカ、イギリス、フランス、
そしてメキシコでも全体として大絶賛であり、
実際、興行収入も世界で100億突破という凄さだ。

でも、日本国内の評価では、
いわゆる批評家の間では、
素直に絶賛できないような意見を
比較的目にする気がするのだ。

その主なものは
「演技が過剰」「セリフで説明しすぎる」
というような
演技面でのくどさを指摘するものと、
「戦争、戦後の描き方が浅い、きれい過ぎる」
「特攻帰りの苦しさが、描ききれていない」
というような
戦争の描き方の甘さを指摘するものと、
「アメリカが黙り続けるのはおかしい」
「ワダツミ作戦に無理がある」
というような
プロット上の矛盾や不自然さを指摘するものに
大別されるだろうか。

でも、そもそも日本人は
太平洋戦争に対して
とても複雑な思いを抱いているのだ。
悲しみと怒りと
やりきれなさと後ろめたさと…。

国のために命を捧げた兵隊たちには感謝したい、
だからと言って、特攻を賛美することはできない、とか、
被害者として、原爆や大空襲の惨禍は忘れられない、
しかし加害者として、
そもそも戦争を初めたのはこちらだし、
アジアでの暴虐があったことも事実だ、とか。

敷島の心中を推し量れば、そこには当然、
命を賭しても守りたかった日本や家族への思いや、
それでも特攻できなかった自分を責める思いや、
生きて帰ってこいと言った母親への思いや、
特攻で死んでいった仲間たちへの思いや、
見殺しにしてしまった大戸島の整備兵たちへの思いや、
大事な典子への思いや、大切な明子への思いが、
渦巻いているはずなのだ。

でも映画はそこを細かくは描かない。

だから、そうした思いがどれほど辛いものかを
見るものがどこまで推し量れるかで、
演技の過剰さは薄れていくのではないかと思うのだ。

実は典子も、両親を戦争で失い、
明子の母親が亡くなる場面にも
おそらく立ち会っている。
隣人の澄子も、
空中で一面焼け野原になる中で
我が子が死んでいくのを
目の当たりにしている。
「新生丸」艇長の秋津も、元技術士官の野田も、
当然、身内か仲間か部下たちの死を
経験しているはずだ。
誰もが悲惨な経験をし、
辛さを胸に生き残っているのだ。

でもそこはほとんど描かれない。

そこまで戦争の悲惨さに踏み込むと、
ゴジラという虚構が白々しく思われて、
映画として成り立たなくなってしまうだろう。
だから、その部分は見るものに任せているのだ。

戦争の深い悲しみを知っている人は、
どうしても色々なことを考えてしまうだろうが、
悲惨な部分はかなりオブラートに包まれているので
一応怪獣エンタメを楽しむことができる。

逆に、特攻の悲劇を想像できない人は、
弱虫で特攻から逃げてしまった敷島が、
自分の弱さを乗り越える物語だと勘違いしたなりに
怪獣エンタメを楽しむことができる。

それでも、もしかすると何かの拍子に
敷島の複雑な心境に思いを馳せる時が
やってくるかもしれないのだ。
ゴジラを倒せたからと言って、
敷島の戦争が終わるはずなど無いことに
気づく時が。
そもそも、戦争とゴジラは別物だから、
ゴジラを倒したとしても
苦しみから逃れられることなど
できるわけがないのだ、永遠に。

本作にはそういう
見るものを心理的に追い詰めないゆるさがある。
そこを、
「実際はそんなものじゃない!」と
知識や理屈で批判することは簡単だが、
そのゆるさのおかげで
映画としてのバランスが絶妙なのだ。

だから、人間ドラマと怪獣スペクタクルが
一つの作品の中で融合できて、
細かなど突っ込みどころはあるにしても、
全体としてシンプルで力強く
感動的な作品に仕上がったのだと思う。

個人的には、最後の最後
目も白濁し、からだ中ボロボロになりながら、
自爆の可能性も顧みずに
最後の力を振り絞って
放射熱線を吐こうとするゴジラの
鬼気迫る姿に震えたなぁ。