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2016年11月8日火曜日

学校という超ブラックな職場

マスコミで話題になるような公務員批判として、
教員のモラルなどを糾弾しようというのではない。
   
むしろ逆で、学校の先生方は本当に頑張っていると思う。
もちろん色々な教職員がいることは確かだが、
20年以上教員をやった印象としては、
子どもたちのためにと思って、
心血を注いでいる方々がほとんどである。

もちろん、そうした思いの押しつけや、

思いと現状のズレが問題になったり、
逆にその思いの強さが、
正しい理解のさまたげになったりすることもあるから、
そもそも、とても難しい仕事なのだ。

そこへもってきて、仕事の量が半端ではない。

まず授業がある。空き時間や放課後には
教科会議、分掌会議、学年会議、職員会議など
様々な会議が入る。
小・中・特別支援校なら、お昼時間も給食指導だ。
さらに放課後は部活動の指導もある。
もちろん土日が部活指導で埋まってしまう人もいる。
  
その上に、生徒指導や生徒相談や進路相談にも対応する。
特に生徒指導はいきなり事件が起こっていきなり始まる。
「退勤時間」になったから帰ります、
というわけにはいかない。
当然、その日の予定はすべて狂う。
場合によっては会議のあとに
家庭訪問したりすることもあるし。
     
じゃあ、教材研究や授業準備はいつやるの?
基本的に自分の仕事は後回しとなる。
「退勤時間」後くらいがやっとホッとできる時間で、
そこでようやく自分の仕事に手を付け始めるのだ。
     
ところが、である。
現在、職員カードを使って
「出勤時間」の打刻が行わるようになってきているが、
なぜか依然として、
「退勤時間」は打刻されていないのだ!
ちゃんと時間通りに出勤していることは記録されるが、
いつ帰ったのかは記録されないのである。
    
ということはつまり、
個々の残業時間の記録がないのである!!
     
その悲惨な勤務状況が時々垣間見えるのは、
教員にアンケートをした時ぐらいなのだ。
つまり個人的な記録とか記憶とかに頼るしかないのだ。
それで管理職は、教員が過労状況にあるかどうかを
把握できると言えるのか?
     
どうです? 
残業時間の多さが問題になっているこのご時世に、
そもそも残業時間そのものが記録されていない職場。
その過酷な仕事を、
子どもたちの笑顔と、使命感と、ボランティア精神で
どうにか乗り切っている職場。
  
教員は本当に良く頑張っていると思うのだが、
あくまで制度としての話として言うなら、
学校は、残業時間さえ記録されない超ブラックな職場である。
   
「定時退勤日」みたいな呼びかけでお茶を濁すのではなく、
きちんと退勤時間を打刻し、
少なくとも
個々の教員の勤務実態と健康状況が把握できるような
まっとうな職場になって欲しい。
   
教員をちゃんと「人」として扱ってほしい。   
    
    

2015年12月16日水曜日

かつての勤務校の同僚から嬉しいお便り

少し前に、以前の勤務校で同僚だった方から
「研究発表会」へのお誘いがあり、
申し訳ないけれど、参加のお断りをしたのだ。
当時同じ分掌で一緒に頑張った方である。

今はもう教育現場に行ってあれこれ考えたり、
意見や感想を述べる気持ちにはなれないから、
正直に異動後に体調を崩して仕事を辞めたことなどを
書いておいたのだ。
近況も含めて。

そうしたら、そのご返事をいただいたのである。

「青の峡谷」のアートボードアマゾンで衝動注文しちゃいました。
すご~い!!!アーティストですね!!!

ご一緒していた当時でもMacのモンさんでしたが、こんなにすごいとはびっくりです。ホームページで見せていただいたモンさんの作品は不思議な世界でスーッとひきこまれていきそうだし、「青の峡谷」の景色はなぜだが私も以前から見ている景色のような気がしました。

この学校ではモンさんが作ってくださったものがず~っと続いています。ボランティアの授業は今も、モンさん作のパワーポイントではじまり、モンさんのプリントを配布し、モンさんのカリキュラムで授業が進行しています。

研究渉外部も、モンさんが開拓してくださったボランティア先と、今でも連携をとっています。

昨年まで本校にいらしたH先生はご退職のあいさつのときに「何もないゼロから学校をつくっていったのは大変だったが楽しかった。あのメンバーだからできたことだった。」とおっしゃっていました。

T先生がぎりぎりまでつくりかねていた「ボランティア」のカリキュラムを、モンさんがエネルギッシュに作っていったことも話していらっしゃいましたよ。

モンさん、ネクスト・ステージへゴー!みたいな感じ、ステキですね。変化の苦手な私ですが、私も異動を前にして、ネクスト・ステージへゴー!の気分にしていきたいです。

またご連絡取り合えればと思います。それではまた!

とても気を遣っていただいたとわかっていても、
思えば、あの当時の頑張りを
こうして正面から褒めていただくことは
今まであまりなかったな。
ありがたいことだなぁ。

それに、
本当にワタシの絵を喜んでくれたような、
そんな感じも少し伝わってきて嬉しい。

元気が出た。
  
「青の峡谷」

2015年6月24日水曜日

残り10mは息継ぎなしで

高1くんは保育園時代に一度、
小学校時代にも一度、
スイミングスクールで水泳を習ったことがあるのだ。
それでも泳げなかった。

保育園時代にも小学生時代にも

外からガラス越しに様子を見ていたことがあるのだが、
特に水が怖いわけでもないようなのだが、
どうも一人だけ浮いていたのだ(水泳だけに…)。

まわりの子たちは、泳げようが泳げまいが

バシャバシャと楽しそうにしているのに、
高1くん(当時は“年長くん”ぐらいか)は
所在無さそうに立っているのである。

つまり、水遊びも泳ぐことも楽しく無さそうなのだ。


その高1くんが今春入学した高校は、

50m泳げないと、特別補習があるのである。
高1くんは入学当初からそのことを気にしていた。
1日だけスクールに行ってみたのだが、
基本の蹴伸びからやらされたと言っていただけで、
少しも進展しなかったらしい。

切羽詰まった高1くんは、先日の日曜日に

友だちと一緒にプールに行き
息継ぎを教えてもらってきたのだった。
それでどうにか25m泳げるようになったのである。
“火事場の馬鹿力”的な進歩だ。
その勢いを駆って何とか50mまで泳げるようにと
昨日も一人でプールに行ってきた。
でも途中で足がつってダメだったらしい。

そしていよいよ今日の体育の授業で、

50m泳げるかどうかの見極めが行われた。
50mとは言っても、25m×2なので
一瞬中休みは取れるのであるが、
それでも高1くんにとっては未知の領域への挑戦である。

そしてなんと、両足がつりそうになりながら、

50m泳ぎ切ったのだった。
残り10mは息継ぎもせずに死にそうだったらしいが、
帰ってくるなり「オレは天才だ!」と言うので
「すごいぞ、天才だ!」と誉めてあげた。

泳げる人にとっては何ということもない距離であろう。

でもワタシ自身、水泳は苦手で苦労したので、
その辛さは良くわかるのである。

特にワタシの場合は、高校が50mプールだったから

水泳の授業がイヤでイヤでたまらなかったのだ。
そんな憂鬱な時期が、毎年確実にやって来ていたのだ。
ワタシもはるばる1時間半かけて
一人で何回か温水プールに通い、
どうにか50m泳げるようになったが、
「残り10mは息継ぎをしない」苦しみは痛いほどわかるのだ

高1くんの場合は、そのお友だち様様だけど、

友だちに頼んでまでプールに行ったというのも
カッコつけたいお年頃としては、ずいぶん頑張ったものだと思う。

良かった良かった。

何だかホッとしたのである。

2015年6月20日土曜日

額縁屋さんとご相談

昨日はデザフェスでブースに来てくださった
“額縁屋さん”がわざわざこちらまで
ご相談に来てくださった。

実際は“額縁屋さん”ではなく、

農業温室分野の業界トップで、
事業拡大によりエクステリアや
インテリアフレームも手がけているという会社で、
近場では川崎ラゾーナや二子玉ライズの
トップライト部分なども担当されたのだという。

昨日お会いしたのは、

その額縁事務部長さんなのである。
インテリアフレームは
島忠などのショッピングセンターやホームセンターに
卸しているとのこと。

まだまだアイデアの段階だけれど、


1.従来のフレームに入っていた無味乾燥な絵や写真に代えて

  少し個性のあるものを使いたい。

2.買い物ついでに、気軽に絵を買って、
  部屋に飾れるような作品を販売したい。
  そのための売り場もきちんと確保したい(すでに交渉中)。

というようなお話であった。


1の方はまぁすぐにでもできるのだが、

できれば一歩進めて、2の方をやりたいとのこと。
でもどういう品物が良いのか、実際に作れるのか、
その際の契約はどうすれば良いのか、まだ検討中なのだそうだ。

1にしても、今までは業者から絵や写真を買っていたらしく、
今、数人の作家さんとコンタクトを取っているのだが
個人的に契約するのは初めてなことらしい。
ワタシもまったく検討がつかないのである。

買い物ついでに気軽に買ってもらえるモノなら、

やっぱり1,000円くらいじゃないかと思うのだ。
原価率25%ほどだと言うから、
その場合は250円で作らなければならない。
つまり作家さんに、そこからどれくらい支払えるのかである。
契約の仕方にもよるしね。

そんなことをあれこれ雑談して、昨日は終わってしまった。

また次回もあると思う。あれば良いなぁ。
島忠とかにワタシの絵がずらっと並んだら、とても嬉しいしなぁ。

ちなみに、その方がデザインフェスタに行かれたのは、

そもそもは作家探しでもなんでもなく、
「コミュニケーションが苦手な」ご子息に
ご夫婦でデザフェスへの参加を勧めて、
その搬入を手伝うためだったという。
そのお話を聞いて、「ん?」と思ったのだ。

ワタシの直感は正しかった。

後でメールでやりとりした際に、
その方のご子息が不登校(経験者かな?)であることが
判明したのである。

そう言えば昔、銀行で口座開設か何かをした時だったか、

本来事務手続きだけを粛々と行うはずの年配の男性担当者から
不登校のお子さんを抱えて困っていると
真剣に相談をされたことがあった。
  
真昼間に契約に行ったので、なぜ昼間に行けたかという説明を
わたしがちょこっとしたのがきっかけだったと思う。
当時は単位制昼夜間定時制高校に
夜間時間で勤務していたからね。

不登校のお子さんのことで苦労されている方は

とっても多いんだろうなぁ。
今回の相談内容とは関係ないんだけど、
なぜかご担当の方に、親しみを感じてしまったのである。

久しぶりに昔の“不登校サポート魂”が揺さぶられたか。
今更ワタシには何もできないんだけれどもね。

  

2014年12月20日土曜日

退職共済年金のこと

今まではとにかく“今”をどうにか生きることや
自分の生活をなんとか取り戻すことが先決で、
年金のことなどあれこれ調べる気持ちの余裕がなかった。
まだ大分先のことだから、その前の生活を
とにかく建て直さなければと思っていたのである。

ちなみにワタシの場合、年金開始年齢は64歳である。
でもそれまでなんとかしのげれば良い、などとは考えていない。
しっかり生活できる収入を得た上で、
年金はな〜ことの旅行に使うのである。

とは言うもの、心配な点があった。
それは共済年金の受給資格なのだ。
資格は次のように書かれている。

原則として公的年金制度への加入期間をすべて合算した期間が25年以上必要です。
  
ところがワタシの場合、
当時は加入期間のことなど考える余裕がなく、
とにかく切りをつけたい一心で
年度途中で退職したのだ。

そうしたらトータル24年6月で、
25年に、半年足りなかった ・・・・・・・・のだ!

そんなこと管理職も事務職も
な〜んにも言ってくれなかったなぁ。
でも気づいたのは退職後に
「年金待機者登録通知書」が届いた時で、
もうあとの祭だったのだ。
まあ、当時の気持ち的には
あのタイミングで退職するしかなかっと思うけれど。

とは言うものの、「公的年金制度」には
「国民年金」も含まれている。
ワタシは退職した翌月から
「国民年金」も「国民健康保険」も加入しているので
それを合算すれば優に25年は越えているのである。
つまり条件はしっかり満たしているハズなのである。

ただ、そういう経緯があるので、
25年をちゃんと越えているという確認も含めて
実際いくらぐらいもらえるようになるのか
公立学校共済組合に問い合わせることにしたのだ。

お問い合わせメールを出してみたのだが、
さてどんな返事が返ってくるのやら。

そんなことができるようになったのも、
体調がだいぶ回復してきた証拠かな。

2014年3月14日金曜日

卒業証書を取りに走った事件

今日の午前中は子どもの卒業式であった
「卒業式」には色々な思い出があるから
どうしても目の前のことよりも昔のことに気持ちが行ってしまう

「文化祭」のような行事もそれはそれで面白いんだけど
「入学式」や「卒業式」の方が印象に残っているのは
あの緊張感の中で関係者として動くことが
結構スリリングで面白かったからじゃ無いかと思う

単位制の昼夜間定時制高校に勤務していた時は
単位の取り具合で3年で卒業する生徒もいれば
最長6年で卒業する生徒もいるから
ワタシが1年時から担任した生徒を3年次で卒業させた後
引続き4年次5年次6年次と連続4回毎年卒業生を出したのだ

新設校だったから教職員も少なく段取りもまだまだで
3年次の卒業式のことであったろうか
いざ校長先生が「卒業証書」を生徒一人一人に渡そうとしたら
肝心の「卒業証書」がどこにもないという事件があった

作ったことは間違いない
卒業生の担任だったワタシはとっさにアレコレ考える
あ…もしかして発行台帳との割印を押して乾かして
後は会場の体育館へ持って行くだけということで
職員室の空きテーブルに置いてあったのを見たような…

ワタシは走った
トップのクラスではなかったので呼名までは時間がある
と言うか「証書」が無ければ呼名どころじゃないんだし
体育館の階段を駆け下り校舎の階段を駆け上がり
息を切らして職員室へ飛び込むと
思っていた通りの場所に「卒業証書」が置いてあったのだった
きれいに揃えてお盆に乗って
確かに「後は持って行くだけ」になったままで

結局準備段階の担当は決まっていたんだけど
完成した後それを“誰が”式場に持って行くかが
決まってなかったのだった…

それを抱えて再びワタシは走った
その間どのくらいの時間だったかは分からないけど
式は中断せざるを得ないはずだと思って焦っている
実際は「アレ?ちょっと間が長いなぁ」と思ったくらいだったと
後から同僚の先生が言っていたから
ザワつくほどの違和感は無かったみたいだったらしいが

体育館に着くとそのままフロアの端を走る
見る人が見れば「あ、卒業証書忘れたらしい…」と分かる…
と思うとかなりハズカシいのだがそんなことは言ってられない
無言で滑るような速足でにフロアーを縦断し
舞台袖に飛び込んで待っていた介添え係の先生に預けると
ワタシは全てのエネルギーを使い切った気分であった
その後自分のクラスの生徒の呼名があったのだが…

でもそういうことを含めて
緊張感の中で関係者が力を合わせて何かをやるという感じが
今の生活には無いなぁと思ったのだ
  
フロアにイスを出して並べ紅白幕も張り終わって
さあ会場準備完了みたいな達成感とか
さあ式が始まるぞっていう時の卒業学年担任団の連帯感とか
阿吽の呼吸でBGMが流れる瞬間の一体感とか
やっぱり一致団結して事にあたっている感じは良いものなのだ

なんていうようなことを思っているうちに式は終った
何だかとても懐かしい気持ちになったのであった

2013年6月10日月曜日

中学校の同窓会通知

前回から10年ぶりの中学校の同窓会が
今年8月に地元で行なわれるというハガキが来た
当時のクラスではなく
学年全体という大規模な同窓会だ 
地元のホテルが会場である

そう言えばワタシ
卒業当時幹事に任命されたんだけど
何にもしていないなぁ
第一地元から出ちゃったからなぁ…

10年前というと2003年になるが
同窓会のお誘いを受けた記憶が無い
新設高で最初の卒業生を出した年だから
目の前のことに忙しく
ハガキをちゃんと見てなかったのかもしれないし
見ていたとしても行く気はゼロだったろう

さらに10年前くらいに行なわれた
恐らく最初の同窓会には出たのだ 
楽しかったかと聞かれれば…う〜ん…
あまり楽しいとは言えなかったなぁ

そもそもが中学・高校時代が
それほど懐かしいものではないのだ
別にいじめられたとかいうような
イヤなことがあったわけではない
むしろ平和で問題のない毎日を過ごしていたと思う
勉強も部活もそれなりに頑張っていたから
充実していたと日々だったと言ってもいいくらいだ

でもワタシ的に悶々としていた時期なのだ
どこにいても居心地の悪さを感じていた
その居心地の悪い場所から
何とか外に出ようともがいていた
  
それはあの薄暗い地方の街の風景や
ちょっとワルぶった当時の友だちの顔などと
結構深く結びついていて
わざわざその世界にもう一度触れに行こうとは
どうしても思えないのである
40年過ぎた今になっても…

そこに行けば新しい繋がりができるかもしれない
とも思うけど
そういう下心があって行くのは
自分のために友だちを利用するみたいで嫌だ
やっぱり基本に“懐かしさ”がないといけないと思う
そしてその“懐かしさ”を感じられないワタシは
理由をつけてまで行く必要など無いだろう

それは今のワタシが身分的にも心身の面でも
不安定な状況にあることとは
また別の話なのである

2013年4月24日水曜日

〝囲む会〟で人を祝う気になれないのだ

14年ほど前に新設校を立ち上げるメンバーとして
一緒に頑張った元同僚の人から
一昨年の個展以来のメールをもらった
彼はもう“先生”ではなく教育委員会の指導主事である

その新設校開校当初のメンバーの一人が
この春に定年を迎えたので 
皆で集まって“囲む会”をしたいとのことだった

その方は開設準備からのメンバーではなく
開校当初からのメンバーなので
わたしの中では大分温度差があるのは事実である

でもそれ以前に
正直なところ今はそういう気分ではないのだ
職務を全うできなかったわたしとしては
職務を全うした人を祝う気にはなれない
そこが割り切れるほど
今の生活に自信と誇りを持ててはいないから

それに行けば今の自分の話を
集まった人たちにしなければならない
必ずしも気心の知れた人ばかりではないし
主役の先生にもわざわざ伝えたいとは思わないのだ

どう返事をしたものかと数日迷った末
今は色々あって出席出来そうにないという
返信メールを出した

いつか晴れやかな気分で
こうした会に出られる日が来るんだろうか
いや別に出なくても良いんだけど
こういう話を耳にした時に
このちょっと嫌な感じが沸き上がるのは
なんだかなぁって思ってしまうのだ 

ま…いいか
自分の前にある道を行くしかないのである

2013年4月1日月曜日

新年度開始に思う

長年教員をやっていたこともあって
4月は特に何もない今でも心機一転な気分がする季節だ
どこか身が引き締まるようなちょっとした緊張感がある

異動の際は4月1日は辞令公布日である
でも教職員全体が顔を合わせるのは
始業式前の職員会議ということが多い
そこで新しい教職員体制が一気に動き始めるのだ
だから本格始動は4月1日ではなく
もう少し後になる

入学式は始業式の午後に行う場合もあるし
日を改める場合もある
その両方を経て新年度の学校が動き始める
さらに新一年生の場合は
オリエンテーション期間があるから
学校の“日常”が始まるのはさらにその先 
4月半ば頃ということになる

また教員として仕事をしたいとは思わないのだが
教員として仕事ができると思えるかどうかが
自分の中の復帰状態を計るバロメーターである
4月初めのそういう慌ただしさや緊張感が甦る中で
では今それができるかと自問してみると
やっぱりまだ無理な気がするのだ

「頑張ろうと思わなくても自然に仕事がしたくなるくらいに、
 心に余裕が生まれてきて初めて、
 職場復帰について考えるくらいで良いんです。」

というようなことを
かつて精神科のジェロ先生が言っていたが
まったくその通りだと思う

でもそうであるならわたしはまだ
仕事に復帰できる状態ではないのだな…
大波はなくなったとは言え
頭痛や倦怠感などの体調の不安定さは続いているし…

 ダウンする前のことを思うと
安定感のある土台のようなものが
自分の中に当たり前のようにあった 

体調が悪いといっても土台自体が揺れることは無く
表面が濡れたとか汚れたとかちょっと傷ついたとか
そんな程度のことであった 
だから一旦作業を止めてメンテナンスすれば
すぐ元に戻るという自信があり
土台そのものが揺らぐことなど考えたことも無かった

ダウンしてその崩れるはずのなかった土台が崩れた
当たり前のようあった安定感が自分の中から無くなった

この感覚は中々説明が難しい
でもそれはとても大きな変化であり不安であって
わたしの場合大分安定して来たとは言え
かつての土台には及ぶべくもない状態が
4年半経った今でも続いているのだ

とは言っても回復の兆しはこの一年色々感じてきた
今もここに来て舌炎が消えかかっている
一年苦しんだ舌先の荒れが治まりつつあるのだ
何だったんでしょう…これ?
こうやって本当に薄皮を剥ぐように
カラダとココロが回復し安定していくんだろう

まぁ分かっているのだが
新年度を迎えた今日思うのは
4月初めの緊張感や不安に立ち向かい
それを楽しもうとしていた頃の
パワーを取り戻したいなぁということなのだった

現場復帰もできそうだと思えるくらいの
心身の安定感を取り戻すには
まだもう少しかかりそうである
  
今年9月でダウン5周年
三年寝太郎ならぬ五年寝太郎って感じで
そこで復活したいところだねぇ
  

2013年2月7日木曜日

運動部が嫌いなわけ

中学時代は陸上部に所属していた
団体種目はどうも苦手で
誰にも迷惑をかけずに
努力の結果が良くも悪くも自分一人に返ってくる
個人種目が好きだった

顧問の先生は穏やかな人だったし
仲間も良いヤツばっかりだったけど
それでも1年生の時に先輩からシメられたことがある
今思えば暴力的なことでもなくカワイイものであったが
その“場”の作り方がヤクザの事務所風で
ショックは相当大きかった
そして自分の中で運動部嫌いは加速した

そもそも運動部に入ることもかなり勇気が要ったのだ
それは運動部は恐いというイメージがあったからだ
特に先輩との絶対服従関係が嫌だった
もちろん先輩や先人を敬うという関係に触れるのは
社会に出た時にもとても大事だとは思う
でもそれも程度問題である

運動部の雰囲気にそういう恐さがなければ
その後も色々な運動部に参加したかもしれないと思う
全くの初心者なのに
屈託なくサッカー部で頑張っている中一くんを見ていると
とても羨ましいのである

かつて新規採用教員の研修で
他教科の教員と一緒になった時のこと

教員採用試験受験の時期は人それぞれであるから
新規に教員になるのは同じ年齢の人ばかりではないのだが
そんな中で体育科の教員の
“先輩”に対する気遣いの凄さにびっくりしたのだ
教員としては同じ立場だし
もう学生ではなく社会人であるはずなのに
絶対服従な感じが色濃く残っていたのである

そんな体育科の教員が
大学時代のまさに君主と奴隷のような関係を
「こんなことまでさせられた」と
楽しそうに話すのを聞くのも嫌だった
それ自慢なのか?
それを“乗り越えた”自分を「スゲェだろ?」と言いたいのか?

先輩になれば威張れるし無理も通るし
その関係は社会人になった後も一生続くというのは
どう考えても理不尽にしか思えなかった
OB会やOG会が強大な権力を持っているっていうのも
そういうことの延長なんだろうと思う 
普通なら金は出しても口出すなだろうに

こうした事柄はすべて軍隊をイメージさせる
上官や先輩への絶対服従と理不尽な日常的暴力
そしてそれが“生死を共にした特別な結びつき”にすり替えられ
上官に殴られたことを懐かしむ戦友たち
冗談じゃない…
それで自殺した人だって大勢いたというのに

だからいまだに運動は好きだけど“運動部”は嫌いだし
個人的には信頼できる教員もいたけれど
“体育科”の持つ雰囲気は好きになれない
“体育教官室” の治外法権的威圧感には怒りすら感じる

あ…もう関係ないんだけどね

 

2013年1月13日日曜日

“熱意の暴力”を防ぐために

「強いクラブにするために体罰は必要」
「気持ちを発奮させたいがためにそうした」
「体罰で生徒が良い方向に向かう実感があった」
(朝日新聞1/12朝刊より)

似てるなぁと思った
何にかというと子どもの虐待にである

「子どもの躾のためにやった」

という自分への言い訳をしながら
最悪の場合わが子を死に至らしめてしまう
幼児/児童虐待である
良かれと思って暴力を振るう
それも圧倒的な体力や権力の差の下で
反撃されないことを承知の上で
そこには自分の方が相手寄り優れているという
思い込みも存在する
小さい子どもと大人である親
経験の浅い児童生徒と経験豊富な教師/監督
という関係は
ある意味絶対的であるという点で
一種のパワーハラスメントでもある

しかし児童虐待には
これは躾の名を借りた虐待じゃないのか?とか
いけないと思っていてもすぐ手が出てしまう…というような
自責の念が時折垣間見られる
しかしスポーツ界で体罰を行なっている人には
どうもそういう視点が決定的に欠けている気がしてならない

それは児童虐待のような密室での出来事ではなく
公の場での出来事でありながら
結果を出しさえすれば許されてしまう
つまり公然と体罰をすることを
世間から認められてしまうことによるのかもしれない
むしろ自信を持って開き直って
体罰を行なっている感じすらする

そして体罰なしには指導が出来なくなってしまうのである
コミュニケーションが暴力を通してしかできず
その他の指導方法が思いつかなくなってしまうのだ

結果を出し周囲も黙認/評価するようになると
児童生徒側も
その関係を受け入れざるを得なくなってしまう
そしてそれを正当化する論理を受け入れようとする 
体罰を受けるのは自分やチームが
さらに成長するために必要なことなんだ
それを辛く思うのは自分の心が弱いからだ
体罰が嫌で部活を止める/キャプテンを降りるのは
自分が試練から逃げているだけだ…などと
そうして体罰を指導者の「熱意」の表れと
感じるようになったりする
DVと同じである

体罰に対する批判が強まって
一時的にこうした傾向は減るだろうと思う
でも体育系クラブの体質としての根は深いだろう
さらに心配なのは
虐待・いじめ・DV・パワハラなどがそうであるように
肉体的な暴力だけが暴力ではないという点だ
言葉や態度による精神的な追い詰めを
指導者は「試練を科す」の名の下に行なっていないだろうか
これは暴力ほど明確に表に出ない分対応が難しい

今回も保護者は異変に気づいていたし
指導者と話し合うことも行なっている
でもやっぱり保護者が直接学校に意見を言うのは
一般的にはなかなか難しいことだと思う
まして自分の子どもじゃないとなれば
出来るだけ波風立てたくないと思うのは人情である

であればこれはもう
匿名で苦情や訴えができる第三者機関を作って
ことの真実や実体を見極めたり
異常な状態であることを認識させたりする必要が
あるんじゃないだろうか
学校と生徒・保護者の間に入って
様々なトラブルに対処する専門機関である

システムそのものを変えようとしなければ
既存のシステムで生じるトラブルは
決して消えることはないのである

2013年1月10日木曜日

教員とは実に過酷な仕事であるなぁ

生徒同士のいじめの問題
そこには生徒による対教師暴力の話もあった
そして教師による生徒への体罰の問題
そしてまた児童のアナフィラキシー・ショック死の問題

ニュースで次々に報道される 
こうした話題に接していると
個別に見れば当然非難されるべき
行動や態度があるだろうとはわかっていても
何て過酷な仕事をしていたんだろうなぁと思うのである 

学校は「教育」の名の下に
子どもに対するありとあらゆる面での責任を
全て負わされているかのように思われるのだ
かつては家庭や社会が担っていた部分まで含めてである

それはちょうど“大きな政府”と“小さな政府”を思い起こさせる
“大きな政府”の場合は政府・行政の規模や権限が拡大し
あらゆることに政府が関わりコントロールしていく
逆にあらゆることで政府が責任を負う可能性が高まる
今の学校や教員が置かれている立場は
この“大きな政府”に似ている気がする

これに対する極論的な“小さな政府”は
塾や予備校だろう
子どもたちの知識や学力を高めるためだけに
それらは存在する

もちろん実際にはそれ以外の面でも
子どもたちやその保護者たちを支えるわけだが
塾がいじめを放置したことで批判されることはないし
そもそも塾に子どもたちの
学習面以外の成長を求めようとは誰も思っていない
実は学習することで確実に人として成長もしているんだけども

かつて学校は塾に近い場ではなかったろうか
そしてまた現実的にはかなり難しいにしても
塾に近いかたちであり続けるという
選択肢もあったんじゃないだろうか
でもそうはならなかった
“小さい政府”にはさせてもらえなかった

1990年の民主化直後に
教員視察団の一員としてハンガリーを視察した時
午前中は学校で勉強し
午後は地域のスポーツ・文化サークルで活動するのが 
子どもたちの一般的な生活だと説明されたのであった
社会主義国であったからという違いはあるが
そういう学校一点集中型ではない
子どもを育てる道もあった気がするのだ

しかしそうはならなかった
地域社会が崩れ家庭が核家族化し
かつてはムラ社会という集団の中で
自然に行なわれていた子育て環境が無くなったツケが
すべて学校に回されたという感じすらする

そんな中で今教員たちは
子どもたちやその家庭が抱える多くの問題に
教科の授業以上に必死になって対応している
まるで教員の資質が低下したから問題が多くなったかのように
管理は厳しくなり研修は増え
何かあればすぐ批判や非難にさらされるという
厳しい状況の中でである

「学校は聞いてくれなかった。何もしてくれなかった。」

謙虚に受け止めたい厳しい言葉ではある
でも敢えて言いたい
それなら学校以外の誰かや何かは
学校を非難することより他に
自分から何かしようとしたのですかと

もし学校が
 
「もう限界だ、“大きい政府は止めた”。
 教科教育だけを行なう“小さい政府”になる。」

と言った時
いったい世の中の人々はどうするんだろう

少しでも一緒になってこれからの子どもたちのことを
考えていこうという雰囲気って生まれないものだろうか
学校がダメだから上手くいかないじゃなくて
そこまで学校だけに無理させるわけにはいかないっていう
協力的な視点が必要な気がとてもとてもするのである

もう教員でなくなって実質4年半になるが
心はやっぱり教員なのだなぁ

実はそういう理不尽さに対するストレスも
相当に大きかったんじゃないだろうか
なんて思うのであった

2013年1月5日土曜日

学校はもっと単位制・定時制になるべきだ

いじめ事件に警察が本格的に介入するようになったのが
2012年という年であったように思う
学校に捜索の手が入り
加害者とされる生徒らが
次々と書類送検/児童相談書送致されるなんて
わたしが教員をやっていた5年前には
まだまだ現実味が薄かった気がする

つまり外部機関による取り締まりを強化させることで
聖域になりやすい学校現場に
一般社会と同じルールをきちんと適用させようと
そういうことなんだろう
それはそれで理解できるし
今の状況を見る限り必要な事なんだろうと思う

しかし…である
今から13年前に不登校生徒増加に歯止めをかけるべく
新しいコンセプトの学校の開設メンバーとして
学校の在り方を考えていた頃を思うと
結局何も変わっていないんだなぁと
ちょっと悲しくなってしまうのだ
それは学校というシステム自体の有り様である

当時誰が不登校になってもおかしくないと言われるほどに
不登校児童/生徒の問題は大きくなっていた
そこには当然いじめの問題も大きく絡んでいた
そんな中でスタートした学校は単位制定時制高校であった
つまり不登校が当たり前な状況というのは
学校というシステムの方が
もう時代に合わなくなっているんじゃないかというのが
その発想の元にある…とわたしは捉えていた

学校集団とかクラス集団とかが
今はもう昔のように受け入れられなくなっているのだ
誰もがかつて考えられなかったほどに
個人的な快楽を志向する時代である
ならば子どもたちだって
昔以上に「学校」という場に
無理矢理押し込まれたというストレスが強いはずだ

もう今はすでに地域の繋がりはないに等しい
保護者同士の関係だってかつてよりははるかに希薄だ
それなら学校/クラス集団に頑張って属していようなんて
思わなくてもまったく自然ではないか

一方でもちろん学校現場は
他人とのきちんとしたコミュニケーションを学ぶ場でもある
いわゆる知識を身に付ける勉強はネットでもできる時代だ
その分学校が担うコミュニケーションを重視した
集団での体験&経験の場としての役割は
確かに大きくなっていると思う
でもそれをもって「だからこそ今までの学校の在り方が重要だ」
と何もしないで開き直るのはおかしいし怠慢である

その一つの打開策が
学年制から単位制へであり全日制から定時制へだと
わたしは思っていたのだ
人と関わる時間や規模を苦しくならない程度に抑えることで
良い体験を少しずつ積み重ねて行くこと
これは単位制や定時制ならより自然に行なえるだろうと

もちろんすべての学校がそうなれば良いとは思っていない
あくまで選択肢が増えて欲しいと思っているのだ
でも現状はそれほど増えているとは思えない
まだまだ“特殊な”学校というイメージに留まっている気がする

公立の中高一貫校が生まれる時代である
ここは一つ公立の単位制中学校とかどうであろう

現在の中学校でも夜間部(夜間中学)や通信制はあるが
基本的に学齢超過者を対象とはしているものだ
それを新しいコンセプトで提示してもっと広く一般に開放する 
資格による単位認定なども取り入れる 

そういう学校システムのドラスティックな改革が
本当は今一番求められているんじゃないかと思うのである

少なくとも
今の子どもたちがストレスを感じない程度の
集団規模とか学校時間とかいったことを
真剣にきちんと研究・検討することぐらい
しても良いんじゃないだろうか 

などとあれこれ考える冬の午後であった

 

2013年1月3日木曜日

ボール遊び「ラッカー」

昨日久しぶりに小学校を見て来て
「ラッカー」という遊びを思い出した

これって一般的な名称ではないんだろうなぁ…
っていうか一般的な遊びですらないのかもしれない

ドッジボールや三度ぶつけなどと同じように
ゴムボールをぶつけ合うのだが
片手で投げつけるのではないのがポイントだ
両足をで〜んと開いて立ち
両手でボールを掴んで股の下から一旦後ろへ引き
状態を起こす反動を使って
そのボールを両手で前に投出す

勢いつけ過ぎて
ボールを股下から後ろに放っちゃう子とか
ボールを股に挟んだまま前につんのめっちゃう子とか
ズボンのお尻が破れちゃう子とか
豪速球だけど
トンデモナイ方にボール投げちゃう子とかもいて
大笑いしたものである

参加メンバーがどうやって
ゲームの最初に散らばるのか忘れちゃったけど
ドッジボールと違って一旦止まったら
その場所で球を投げるしその場所で球を受ける
ボールから逃げたり避けたりすることはできなくて
基本的に全てキャッチすることが要求されるのだ
逆に取れる範囲にボールが来て取らなければ
取らなかった方がアウトである

投げる方は相手が取れないような豪速球をくり出そうとする
そうすると股下から後ろへ引く距離や勢いが増し
上手い子の投球フォームは
上半身と腕が奇麗な振り子運動を描くことになる

これをまた上手く取る子がいて面白い
ドッジボールのように
胸で「バムッ!」って音たてながら取るのだ 
そして取ったらその子が周りの子に投げつける番になる
こうして最後までアウトにならず残ったら勝ちである
上手い子二人が最後に残って対決する姿には心躍ったものだ
「バム!」「バム!」っていう音と
タイプが違う美しい振子の動きが延々と続くのだ

股を広げてっていうところで
高学年になると女子に敬遠された気がするけど
早く走れなくても腕力が無くても
ボールに勢いを与えるテクニックと
意外なコースを狙えるコントロールがあれば
真っ向勝負できたことから
中には毛糸のパンツにスカートをはさんで
一応パンツそのものは見えないようにした上で
男の子たちと対等に遊んでいる女の子もいた
  
小学校3〜4年の頃だったか
その頃秘かに好きだった女の子がこのドッジボールが上手くて
その活きの良い魚の様な姿がやたらカッコ良く見えたものだ

ルールにアバウトなところが多いから
微妙な判定を話し合って決めることもしばしば
それもまたそれぞれの性格や気性や
精神年齢なんかが透けて見えて面白かった

今もあの小学校では
「ラッカー」が行なわれているんだろうか?

しかしなんで「ラッカー」って呼んでいたんだろう?
「落下」から来ているのか?
わからんなぁ…