2009年7月20日月曜日

「岸啓介のふしぎフィギュア博物館」岸 啓介

    
岸啓介のふしぎフィギュア博物館」(岸啓介、マール社、1998年)は造形作家岸啓介のフィギュア&CG作品集。

1998年に「たけしの誰でもピカソ」という番組に於いて、アートバトル3代目グランプリ獲得を契機に、1999年第3回文化庁メディア芸術祭デジタルアートのんインタラクティブ部門大賞授業、2000年同優秀賞受賞などなど、その独自の世界が評価、注目されているアーティスト。

寡聞にしてわたし、知りませんでした。こんな妖しいフィギュアを作る人がいたとは。もちろんフィギュアは表現手段の一つであって、もっと大きなCGや、もっと巨大な立体作品も制作されているようなので、凄いのは彼の作り出した「世界観」なんだろう。

でも、例えばマニアックな例えで申し訳ないけれど、Yesだったら「危機(Close to the Edge)」みたいに、作家性や作品群から見える世界観にたどりつかなくても、この一作に打ちのめされたというモノがある。それをきっかけに、その作家の世界に踏み入っていくのだけれど、やっぱり常にそこに戻ってきてしまうような強烈な作品が。

本書で紹介されている岸啓介の作品群は、フィギュアにもCGにも、種類を分けていても共通の世界感を感じる。しかし圧倒的にフィギュアの持つ質感がいい。
    
彼の作品は、丁寧に作り込まれ複雑に重ね合わされた各部分と、意外と単純にできてる構造との対比、人力で動く部分とロボティックな構造の融合、異形のもの たちとレトロな雰囲気の意外性など、言い尽くせない魅力を持つ。しかし本書の作品全体を通して感じられるのは、各作品世界を補う挿絵や文章の効果もあって、不思議で不気味でユーモラスな世界(左写真:ウェブサイト「岸信介読本」より)。
     
    
挿絵や文章はそれはそれで面白いけれど、それにとらわれると世界が限定されてしまってもったいない。このあたりは「イバラード」に共通する点だ。できたら説明なしで、フィギュアを美しい構図で撮った写真集が欲しいと思った。そして一切の予備知識や説明なしに、作品そのものを味わいたい。

昆虫や魚なども魅力的なのだが、やはり「おっと、お江戸のカラクリ伝」に分類されているものなどの、人の顔が造形に含まれる作品の魅力は格別で、その白眉と言えるのが圧倒的な迫力と不気味さと優しさが一体となった「大天使」(下写真:本書より)だった。まさに強烈なインパクトを与えられた一作。まさにYesにおける「危機」。
   
   
「大天使」に、わたしは日本的な闇が持つ不気味さを感じた。古い大きな日本家屋の、あるいは神社の、光届かぬ深山の、奥の奥のそのまた奥の暗い闇の中で、かすかな微笑みをたたえながら世界を見守っているような、あるいはそのちょっとした動きが世界を震えさせるような存在。

もちろん他の作品の凄さも並大抵のものではない。「狐の嫁入り」はちょっと宮崎駿モンスター風だし、「サーカスロボット」はブラザーズ・クエイ(Brothres Quay)を思わせる。人によって、あるいは見る時期や気分によって、インパクトのある作品は変わるのかもしれない。

Yesにだって「危機」以外にも、「こわれもの(Fragile)」や「リレイヤー」があるっていうことだ。って、だから例えがマニアックだってば。

 

2009年7月17日金曜日

「タイヨウノウタ」とくるき亭初号機

Webで手作り時計の「くるき亭」を見つけたのは、本当に偶然であった。その何とも言えない手作り感と、にもかかわらず漂っている職人的なこだわりを感じさせる妥協なき精密さに強く惹かれた。
  

手作り時計にありがちな、自己満足的なデザイン重視、でもそのデザインに全然締まりがない、っていうモノとは質が全く違う。
歌手のYUIが主演していた映画「タイヨウのうた」で、主人公が腕につけていた時計が「くるき亭」のものだったというのも後で知った。
    
    
「タイヨウのうた」は前任校当時に生徒に勧められて、じゃあ一緒に観てみるかって学校のホームルームの時間を使って観たのだった。思えば自由な学校だったなぁ。

難病ものとしては「世界の中心で愛を叫ぶ」路線な感じではあるけれど、YUIの存在感で、2番煎じにならない良作となっていた。
 
ちなみに、YUI演じる薫が病いの進行によって大切なギターのフレットを押さえられなくなる場面がある。比較にはならないけど、ウクレレ始めた自分にとってそのショックは痛いほどよくわかる。逆に言えば今自分はウクレレにずいぶんと助けられているということでもあるんだな。

作品の設定上、時計が重要なのだけれど、そこでくるき亭のものが使われたということに納得した。
自分で“発見”した時計が、きちんと評価されていることもうれしかった。

そして、最初に注文したのがこの時計である。スクエアだけどちょっといびつな本体、手描きの文字にカビが生えたようなフェイス、そこでしっかりと時を刻む漆黒の針。ベルトはグリーン。
    
    
自分にとっては、デザイン、色、腕へのフィット感など、トータルで一番気に入っている時計だ。気持ちがデジタルに変わる前に、dedegumoの赤い時計とともに職場で苦楽を共にしてきた、お守りのような時計だ。

この時計が、今回のわたしの不調に合わせるかのように、今週になって止まった。早く電池交換してあげなければと思いながら、カラダと気持ちがそこまで動けなかった。

病休後の自分を支えてくれているのは、彼女といっしょにくるき亭まで行って作った自作時計だ。しかし今一度、職場とのやり取りのために気持ちを奮い立たせるには、かつての戦友たちの力がいるのかもしれない。dedegumoのアカは元気。デジタルも先日復活した。

今日やるべきことはただ一つ。
この時計を蘇生させてあげることだ。

 

2009年7月16日木曜日

レンドルミンDのプラシーボ効果

 ネットで見ると「睡眠導入剤」としては
効果が弱過ぎると書かれている
「レンドルミンD」だけど
プラシーボ効果でしょうか
なぜか寝付くことができた。

効果時間1.5時間に満たない
約1時間で目が覚めてしったが
今日1日どうしても寝付けなかったことを思うと
とてもありがたい

相変わらず頭痛はするけど
首の苦しさは大分軽減されたし
吐き気も治まってきた感じ

体調が戻れば
気力が充実するんだけどなぁ
だから無理しちゃうのか

でも自分の一部が
心的アレルギーを起こすような
どうしてもイヤな場所に残っているようで
心理的にも体調的にも
現場撤収は悲願なのです

そのための第一歩
体調が戻ってきた今だかこそ
踏み切ってみた第一歩
苦しみ抜いても悲願達成を目指すぞ

そして自分自身の
次のステップへ進むぞ
お〜!!
って感じ

2009年7月14日火曜日

「奥底に恐怖があるんだよね」

3週間に1度のカイロプラクティック。
今日は珍しく空いていたのでちょっと話ができた。

「調子はどう?」

    
「右肩の痛みが取れなくて。」
    
「(触診しつつ)最近お酒飲んでないよね?」
    
「大分前から止めてます。」
    
「でも腫れてるなぁ(たぶん肝臓のことか)。」
    
「カラダの疲れが抜けないですね。
 特に首の周りの苦しさが取れないです。」

     
    「う~ん、それはね、心の底に恐怖があるだよね。
(胸の中央を押しながら)ここ痛いでしょ。
 今からね、何でもいい、嫌なことを思い浮かべてみて。
 浮かんだら『はい』って言って下さいね。」

    
「(何となく嫌な気分を思い出して)...…はい。」
    
「ほら、痛くなくなったでしょ、ここ。」
    
「ホントだ。」
    
意識下にあった“恐怖”を、
ちょっと吸い取ってもらったかのようだった。

「その気持ちがあると、カラダに力が入らなくなっちゃう。
 でも、ここ(首筋)に力が入っちゃうんですよ。
 これは自分ではなかなか取れないんだよね。」

    
「筋トレとかは効果ないですかね?」
    
「あなたも僕もそうなんだけど、
 あ、ごめんね、一緒にしちゃって。
 子供の頃からスポーツで汗を流して
 ストレス発散してきたタイプじゃないんですよ。
 だから突然運動するとカラダがびっくりしてしまうんです。
 運動してストレス発散しようというのは

 カラダには良くないですよ。
    
 そうじゃなくて、散歩をしてきれいな景色を見るとか、
 素敵な絵を見たり、凄いCDに出会ったりすることで
 喜びがあって、すぅっとストレスが発散されるタイプですよ。
 カラダのことはまかせて、

 そうした体験をいっぱいした方がいいよ。」
    
「今のお話、すごく良くわかります。そうですよね。
 実は今ウクレレやっているんですよ。」
「いいじゃない、とっても。奥が深い楽器だよね~。」

     
5分程度の会話。
でもなんて密度の濃い会話だろう。
   
3週間に1度、

わたしはカラダとココロに力をもらっている。
   
    

NHKドラマ「極楽家族」(1978)

歩くひとりもの (ちくま文庫)」(津野海太郎、筑摩書房、1998年)の文庫版あとがきに、ひとりものというと、周りは〝オトコオンナ問題としてとらえようとしたがるのにたいし、著者自身はむしろ「都会でひとりで年老いるという状況を自分でどう納得していくか」という〝老人問題へ関心が傾いていたと、出版当時を振り返るくだりがある。

「ひとりもの」への関心が高いわたくしとしましても、なかなか面白かった。第二の人生はどう老いていきどう死んでいくかも含んだ人生だから。
   
そうしたらNHKで、ひとりの老後をどう生きていくかという番組をやっていた。その中で自分の子供たちと同居したいと思っている高齢者の数を、同居したくないと思っている高齢者の数が追い抜いたという話があった。

そうだよなぁ、とそれを見ながら思った。私もそ
うありたいと常々思っているからだ。そしてそこで紹介されていた年齢を越えたグループホーム(高齢者と女子大生の同居)を見て、昔のNHKの番組を思い出したのだ。確かミヤコ蝶々が出ていて、アカの他人である子ども世代の若者と疑似家族を演じるお話だったなぁと、ネットで調べてみた。

     そうしてわかったのが「極楽家族」という1978年のドラマだった。記憶に残っているのは、ミヤコ蝶々演じるおばあちゃんが、疑似家族の中では活き活きしているのに、最後に息子夫婦と同居する場面で、とてもとても寂しそうな表情をして終わるところだった。
     

その番組を見て、わたしはとても納得した。10代にして、というか10代だからこそ感じていた「家族」の息苦しさに、見事にシンクロしたんだろ思う。

「家族」の一員である限り、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という「役割」を押し付けられる。当時いくら頑張ったって「家族」の中では「子ども」という「役割」から自分が抜け出せなかったように。

疑似家族には、きちんとした「遠慮」や「尊重」がある。「家族」における
互いの「役割」を、あくまで「役割」として楽しんでいるだけで、基本のところには対等の「個人」であるという心遣いがある。ここが実際の「家族」と大きく違うところだ。

当時は“斬新”だった設定かもしれないが、
   
「産業社会を維持するために、外勤労働と家事育児を夫婦で完全に分業するためのシステム」には、子育てや仕事からリタイアした後のことは、含まれていません。」
  
「フロン―結婚生活・19の絶対法則」
(岡田斗司夫、幻冬社文庫、2007年)より


ということに直感的に気づいていたかのような作品だ。核家族中心のシステムには、高齢者の居場所がないのだ。だから「老後の面倒を見てもらう」という不自由な立場しか残されていない。つまり核家族化した今の「家族」制度は、不完全なのだ。

ドラマでは、親が疑似家族を始めたことで、世間体を気にした実の子どもが同居しようと思い始める設定だったように思うが、そこはやはり1978年的な限界だったろう。

しかし
ラストでミヤコ蝶々が見せる悲し気な表情は、結果的に高齢化社会において今の「家族」制度には無理があること、そして高齢者自身がそうした有り様にNOを言い始める時代がやってくることを予言していたとも言えるかもしれない。

わたしはと言えば、「子ども」の「役割」から降りるために、結局大学時代に一人暮らしを強引に始めることになるんだけれども、それはまた別のお話。

とりあえず今思うのは、
いろいろなしがらみから逃れて、
な〜ことつましく暮らしたいなぁ、ということだな。

 

2009年7月10日金曜日

カリンバが来た〜

超衝動買い楽器「カリンバ」(Kalimba)が来た。早い。

タンザニア製だから、本来なら「リンバ」(Limba)と言うべき楽器。
「カリンバ」という名前は南アフリカの楽器メーカーが工場生産して世界に輸出した親指ピアノの商品名だという。ただしマラウィという国では「カリンバ」と呼ぶらしいから、ちょっとややこしい。
ただしマラウィの「カリンバ」は厚めの板をくりぬいてフタをしたもの。タンザニアの「リンバ」は、板を組み合わせて箱型にしたもの。送られてきたものは構造的にも板を組み合わせて作られているから「リンバ」だ。
ハガキ大の手頃な大きさ。いかにも手作りな感じがいい。「さわり音」を出す金属片が何かの缶のリサイクルっぽいのがまた味がある。
    

バーを爪で弾いてみる。金属片がビリビリ、チリチリと良い音を出す。
この「さわり音」の妖しい響きとバー本来の金属的な響きが混じり合って、実に不思議な音空間を作る。これが3千円しないで手に入るなんて、し・あ・わ・せ。


チューニングは「タンザニアでよく演奏されている音階」(同封パンフレットより)にしてもらった。そうすると「ドレミが揃っていて何かの曲を弾く」というようなことには向かないが、
どのバーを組み合わせて鳴らしても音が響き合うようになっているので、音そのものを自由に鳴らして楽しめるのだ。

しばし我を忘れて弾きまくる。左手でリズム、右手で適当に音を混ぜる感じ。おぉ、まさに自分のための音楽。自分のための楽器。いいなぁ、「さわり音」。

ちなみに「さわり音」とは
親指ピアノ道場! ~アフリカの小さな楽器でひまつぶし~」(サカキマンゴー、ヤマハミュージックメディア、2009年)で、著者が名付けた表現だ。著者も触れているように「さわり」とは本来は三味線で使われる言葉。三味線の一の糸をわずかに棹(ネック)に触れさせて一種のノイズを発生させ、倍音の成分を増やして音を豊かにする仕組みを指すのだとか。

もっと「さわり音」を増やせないものかなぁ。こういう予測不能なノイズが混じっているのって魅力的なんですもの。

   
   

2009年7月8日水曜日

「親指ピアノ道場!」サカキマンゴー

    
ちょっと本屋に寄るともういけない。どうしても何冊か本を買ってしまう。特に音楽・美術関係はアブナイと思っていたのだが、やっぱり買ってしまいました。

その中の一冊が、この「
親指ピアノ道場! ~アフリカの小さな楽器でひまつぶし~」(サカキマンゴー、ヤマハミュージックメディア、2009年)である。

「カリンバ」とか「ムビラ」とか呼ばれるこの楽器は、その存在は知ってはいたのだが、本書を読んで、実は親指で金属をはじいて音を出すという仕組みは共通でも、呼び名、大きさ、キーの数など実に多様であることを知った。

さらに、イメージとしてはオルゴールのようにきれいな音のするものだと思っていたのだが、違うらしいのだ。

「細長いヘラをはじいて音を出すだけの極めて単純な作りの楽器だが、元来、親指ピアノの音色にはオリジナルは『ビリビリ』『ジャラジャラ』『ブーン』という『雑音』を伴っているのだ。(中略)これこそ親指ピアノの音色の最大の特徴で、なくてはならないものである。これを『必要な雑音』という意味でサワリ音という言葉を使っている。」

どうも、もっと妖しい音らしい。大好きだ、そういうの。そして次の文章にもいたく共感した。

「電気的に歪ませた倍音たっぷりのエレキ・ギターの音は、ロックに今や必要不可欠なものだが、これはオーケストレーション重視の澄み切った音に対する反抗と仮定しよう。遠回りしたのち、西洋音楽の一部はサワリ音を取り戻したのだが、世界各地には、とっくにジャラジャラ、ビリビリ、ブワーンとした音が昔から今まで続けて存在しているのだ。」

そしてもう一つ興味を覚えたのは、一部で過去の楽器として消滅しようとしつつ、また一部では電気化され現在の音楽シーンにも影響を与えようとしているこの楽器は、そもそもがサブタイトル「アフリカの小さな楽器でひまつぶし」とあるように、
  
「ステージで演奏するために外へ向うように発達してきた音楽とは全く違う、自分の内面へ向うための音楽」
  
のための楽器だという点だ。だから音が小さくていいのだ。

そして気づいた。そう、まさに自分が「ウクレレ」に感じている面白さにとても近い。そう言えばウクレレも独特のチューニングをするし、弾き
方も自由だし、ギターのように完成されていない感じが逆に大きな魅力なのだ。だからウクレレの魅力はLow Gではなく、やっぱりHigh G(レギュラーチューニング)だよな、と納得する。

そしてさらにもう一つ。奏でられる音楽が、リズムの揺れやポリリズムを大切にしているということ。わたしはたぶんメロディーよりもリズムな人間なんだという気がするから、この親指ピアノが開いてくれる世界が楽しみなのである。
って、もう買ったような口ぶりであるが、うふふ、本を買ったその日にネットで注文してしまったのだ。
「カリンバ」で探すと結構あるのだ。もちろん「オルゴールのようなきれいな音」とか書いてあるものはパス、「サワリ音」が出そうなジャラジャラがくっついているものを頼んだ。

楽しみ楽しみ。
(引用は全て同書より)

2009年7月5日日曜日

さよならの夢

朝5時に一度目が覚めたけど
結局8時半くらいまで寝て
結構眠った感じがしてうれしい。

夢を見た。

学校から去ることになって
まだ予算請求してなかったなとと
些細なことを思い出してちょっと焦る。
まぁいいか。
後はもう残った人に任せよう。

心配な生徒が何人かいて
現実には当然そんなことはあり得ないんだけど
一人ずつぎゅう〜って抱きしめて
さよならをする。

長い長いはしごを下りて
天空にある学校から
地上に降り立つ。

降り立った所はどこだったのだろう。

「タリオン錠」断薬

発疹が収束に向っていた感じだったが、ほぼカラダから消えた。かゆみもほとんど無くなった。さて、どのタイミングで薬を止めるかって難しいんだけど、昨日から塗り薬は止めている。

副腎皮質ホルモン剤、いわゆるステロイド剤なので、何となく使わなくて済むならできるだけ使いたくないのだ。もちろん症状の改善には効果があったわけだから、ありがたいお薬であったことは間違いないのだけど。

今日(もう昨日だけど)も塗り薬を止めた影響は特に出ていない。湿疹が復活したりはしていない。そこで次は抗アレルギー剤「タリオン錠」を今日から断薬している。朝晩の服薬だが、金曜夜に飲んだのが最後だ。

予定では今度の水曜日が皮膚科診察日なので、それまでは続けようかとも思ったけど、どうも目的の違う薬を複数飲んでいるというのがイヤなんですね。ということで、今夜から服薬は睡眠薬「ロヒプノール」一種類に絞ることにする。

さあ、どうなるんでしょうか。突然始めて突然止める「タリオン錠」の影響はいかに。今夜の睡眠状態に変化は出るのでしょうか。ワクワク。
  

   

2009年7月4日土曜日

「息を止める」クセ

「睡眠時無呼吸症候群」という病気がある。その名の通り睡眠時に無呼吸(10秒以上停止)、あるいは低呼吸(10秒以上換気量が50%以上低下)という症状を示す。

実はもしかすると、わたしにもそういう傾向があるのかなという気もするのだ。ちなみに肥満体質ではない。お腹出てきてるけど。

でも疲れがたまっていた病休前は、いびきをかくようになっていた。その時無呼吸状態になることがあったらしいのだ。以前はそんなことなかったんだけど。お酒を飲むと特にその傾向が強かったけど、お酒自体が次第に飲めなくなったから、いびきは以前ほどはかかなくなったと思う。

今はまだ恐る恐るお酒に時たま手を出す程度だから、酔っぱらっちまったいって事には、まずならない。だけどもしかすると無呼吸状態には今でもなっているかもしれない。

というのは、自分で横になっている時に自覚する時があるのだ。眠っている時ではなく、横になってカラダを休めているような時とか、眠ろうとしてまだ寝入る前とかに。つまり起きている時に、安静状態になると、時々呼吸が止まるのである。吸った状態ではなく、吐いた状態で止まる。

感覚としては、ヨガなどで「はい、そのまま息を止めて」みたいな感じ。吐ききったところで、止まっているか、ゆ〜っくり吐いている。

まぁ、確かにヨガとか呼吸法みたいなものを自己流でやっていたことはあるのだ。だから呼吸を止める事に抵抗がない、っていうか、そういう訓練みたいなことをしたことがあるのだ。だから自然と安静状態に成ると止またりするようになっちゃったのかなぁ。

なんだろ、これ。
クセみたいなものかしら。それとも自虐的なのかしら。
     
でも苦しいのが快感とかいうわけじゃないんですよ。脱力の延長みたいな感じなんだけど、カラダに良くないとか、睡眠障害に関係しているとかだったらイヤだなぁ。

深呼吸のクセをつけるかな。

2009年7月1日水曜日

ウクレレで「Tears in Heaven」

ギターを習ってた時、やっぱり基本はまだまだギターの技術的な練習が中心だったから、一曲全部というよりは、その一部を練習することが多かった。アメリカのバンドカンサスのヒット曲「Dust in the Wind」のイントロや「北の国から」のテーマミュージックなどをアルペジオの練習に使ったり。サイモン&ガーファンクルとかもね。

でもそんな中で、この曲は一曲弾けるようになりたいなぁと思ったのがこの「ティアーズ・イン・ヘヴン(Tears in Heaven)」であった。エリック・クラプトンの名曲である。泣ける歌だ。詩も、メロディーも、作られたいきさつも。


Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
'cause I know I don't belong here in heave

もし天国で君に会ったら、君は僕の名前がわかるかな?
もし天国で君に会ったら、何も変わってはいないかな?
僕は気を強くもって、がんばっていかなければならない
だって実際は天国にいるわけじゃないから


この曲は、クラプトンの当時4歳半だった息子のコナーへ向けた切ない思いを歌ったものだ。コナーは1991年にアパートの53階にある自宅へと、母親と階段を駆け上がっていて、たまたま開いていた踊り場の窓から転落し、亡くなる。

クラプトンは悲嘆のあまり自宅に引きこもった。しかし1992年、この曲を作ることで悲しみを乗り越えて復活する。天国の息子へ語りかけながら、自分をも奮い立たせようとする思いが心に染みる曲だ。

ウクレレを弾き始めて、音域の狭いウクレレでも結構色々な曲が弾けることがわかってきた。さらにYouTubeでウクレレで「Tears in Heaven」を弾いている映像も目にしていて、「Tears in Heaven」が弾けるようになりたいなぁと、ずっと思っていたのだ。

そこでふと思い立って、誰か作ってくれていないかなとネットで探してみたら、ありました、「gawasimanの音楽日記」さんに。いや~もう感激。手書きのものだったので、さっそく「Guitar Pro 5」で譜面の“清書”をして練習をしている。

この曲が弾けることがまずうれしい。弾きこなせるようになれたらもちろん最高だけどね。