2011年4月2日土曜日

「世界大戦争」(1961)

  
世界大戦争」は1961年(昭和36年)、戦後16年を経た年に作られた東宝渾身の反戦映画である。

1954年に「ゴジラ」で間接的に核の脅威や戦争の恐ろしさを描いてから7年、ゴジラに続く怪獣映画路線とも、その後に作られた「ガス人間第一号」を頂点とする“変身人間”シリーズとも、「妖星ゴラス」などのSF物とも異なる超大作だ。シリアスな雰囲気は後の「日本沈没」に近い。

ストーリーはシンプルである。東西冷戦の緊張関係がやがて世界大戦へとなだれ込み、世界中の主要都市が核ミサイルにより消滅。その放射能の影響で全人類が滅亡することが暗示されて終わる、極めて悲劇的な重い内容だ。

しかし撮り方を間違えれば、軍事シミュレーション的な映画か、大パニック映画にしかならなかったものが、フランキー堺演じる平凡な一家族に焦点を当てることで、戦争の理不尽さが強烈に浮き彫りになり、感動的な作品となっている。

当時の東西冷戦という状況を反映させて、連邦国軍と同名国軍による緊張が続く世界。第二次大戦から奇跡の復興をとげ、やっと平和を謳歌しは始めた日本は連邦国に属している。

朝鮮半島北緯38度線で展開される衝突。連邦国側ではコンピュータの誤作動による核ミサイル発射のカウントダウン。同盟国側でも同様の核ミサイル発射事故を防ごうと、ギリギリまで努力がなされ間一髪で発射は阻止される。どちらの陣営も核ミサイルのボタンを押したら、相手だけでなく自分たちを含めた世界全体が終わってしまうことを知っている。

この「戦争をしたいと思っている人はどこにもいない」という視点もこの映画の大きな特徴である。「悪」がいて「善」がいて、「悪」を倒せば世界は平和であるという、勧善懲悪的な図式はそこにはなく、だからこそ全編に渡り両陣営のピリピリした緊張感が張りつめる。

平和に日常の中で、酒を飲み、食事をし、恋愛をし、未来を語る人々の丁寧な描写がいい。明日があることを信じて、来年の春にチューリップが咲くことを信じて、日々の生活をしている人々。疎開をあきらめ死の瞬間を待つ一家。理不尽さに「娘はスチュワーデスに、息子はオレが行けなかった大学に入れてやるんだい!」と叫ぶフランキー堺演じる父親の望む、ささやかな幸福が胸を打つ。

保育園にあずけた子どもを避難する人の流れに抗って必死に迎えに行こうとしながら力尽き果てる母親。無線で船上の恋人と最後のやりとりをする東京に残った娘。最後に交わされる胸が締め付けられるような言葉。登場人物が皆いい演技をしているのだ。

今見ると両陣営とも英語をしゃべっているとか、ミサイル施設や基地内部が安っぽい感じがしてしまうとか、外国の地図も日本を中心に描かれているとか細かな難点は確かにあるけれど、それらを忘れるほどに、平和が一方的に踏みにじられる側の描写に重みがある。

映像的には、避難する人々のモブシーンの迫力が凄い。さらに円谷特撮の見事さ。精巧な主要都市の風景。ベーリング海での両陣営の戦闘機の空中戦の迫力、水中の潜水艦から発射されるICBMの海上に出た瞬間の炎のリアリティー。

そして最後の大都市壊滅シーンの恐ろしさ。核爆発の爆風、高熱(炎)という威力を丁寧に描き分け、大カタストロフを映像化している。そこにはミニチュアワークとか合成とかいった手法を越えた、愚かさへの怒りが込められているような、強烈な迫力がある。

ヒーローもヒロインもいない。奇跡も起こらない。超人的な行動や愛の力も存在しない。ただただホームドラマにでもなりそうな家族が次第に戦争の恐怖に巻き込まれ、やがて核のキノコ雲の下で無念の思いを残しながら消えていく物語である。

怪獣映画の影に隠れて今ではあまり目立たないけれど、これは傑作である。