2010年7月2日金曜日

「アバター」

   
「ターミネーター2」、「タイタニック」の監督ジェイムズ・キャメロンの話題の最新3D対応ムービー「アバター」。遅ればせながらDVDで(つまり2Dで)観たのだ。3Dということに話題が集まり過ぎている感じがするが、2D(つまり従来の鑑賞法)でも十分に面白かった。

ストーリーが、“利己的で自己中心的な白人が先住民族の異文化を理解しようとしないまま物質的利権を武力で手に入れることへの疑問”という、トラウマのように何度も繰り返されるテーマが、また持ち出されているいう批判もわかる。


あるいは戦争で足が不自由になったもと海兵隊員が、アバターとリンクすることで、彼にとっては仮想現実の中で自由を手に入れ、異民族の異文化の中で“選ばれし者”となり、族長の娘と恋をし、やがてパンドラの全種族を率いてその存続をかけた闘いを指揮するという、“仮想現実でのヒーロー体験”であるというヴァーチャル逃避感覚を秘めていることもわかる。


それでもこの映画は非常に良く出来た実に面白い映画であった。例えば「ポニョ」がつっこみどころ満載ながら、何かもの凄いエネルギーに溢れている映画であるのと同じように、「アバター」も、おそらく感じる映画なのだと思う。理屈は単純でいい。筋書きも人物描写もある程度単純でいい。実はそれほど単純ではないのだけれど、一見単純に見えるところが監督のうまいところである。そしてその中で擬似的に様々な体験することの面白さが凄いのだ。

  
   
恒星間飛行を実現し、先住民ナヴィと人間のDNAを組み合わせてアバターを作り上げている科学のレベルから考えて、あの軍事力はあまりに現代的、非未来的ではないかという点も、だからこそ戦争を擬似的に体験でき、現実に戦地に向う人間たちに共感する余地を残すことが可能となる。彼らも未知の惑星で必死で生き延びようとしているのだ。

もちろん無骨な鉄のかたまりのような人間側の兵器がパンドラを飛ぶことで、一気にパンドラのリアル感が増す。このリアル感は例えば円盤のような未来兵器では感じられないリアル感である。そのメタリックさがパンドラの自然の美しさを一層際立たせることにも役立っている。つまりその感覚を得ることが優先された選択だということだ。


ナヴィたちとの一大決戦に臨む際に“適役”の大佐が部隊を鼓舞する場面があるが、ストーリー展開上ナヴィ側に感情移入している中で、彼らの不安そうな顔が実は意外と印象に残る。第一大佐本人も別に責められる立場ではないのだ。任務を遂行し部隊の無事を優先することを職務とする軍人なのだから。


鉱物資源開発を行なうRDA社の責任者も、任務を全うしようとしているだけだ。彼は言う「学校を作り英語を教えた。でも関係は良くならない。」と。これも印象に残った言葉だ。そう彼もまた自分たちの論理の中で最善を尽くしているとも言える。しかしまさにこの自己中心的な価値観の狭さこそ、未開なものたちを文明化するという口実の下に自分たちの文化を押し付けることで異文化を征服するという、典型的な征服者側の姿勢を端的に表している。


では研究者たちはどうだろうか。彼らも実はナヴィ達の文化やパンドラの世界に学術的関心を持っているだけである。ナヴィたちの文化を理解し共有し、その結果としてナヴィやパンドラを開発から守ろうとしているわけではない。


資本家、軍人、研究者。誰もが任務を遂行しようとしているだけで、実はナヴィの文化をそれぞれの狭い世界なりに理解しようと努力したとも言える。しかし彼らにはナヴィの世界の豊かさは理解できない。唯一主人公だけがそうした目的を何も持たないまま現地へ派遣された故に、どの立場にも組みすることが出来ないまま、自然とナヴィの生活に溶け込み、その豊かさに触れることが出来る。


そして結局異文化を受け入れることができたのは、アバターとしてまさにナヴィと同じように植物や動物、そして先祖たちと交感できるカラダを持ち得た主人公だけである。逆に言えば「異文化理解」と口で言うのはたやすいが、現実にはその生活、肉体、思想、空気、全てを通して感じ取るモノであって、それは非常に難しいことが示されているのである。

   
   
しかしその主人公を通して、観ている観客も、最初はちょっとグロテスクに思える青い巨人(身長3m)たちに次第に親近感を覚えていくのだ。この気づいたら異文化に抵抗を感じなくなっているという感覚。気づいたら族長の娘ネイティリ(右図)が美しく魅力的に見えているという変化。この自然な、でも不思議な体験がこの映画のキモだと言っても良い。異文化を受け入れることを声だかに叫ぶのではなく、静かにそして知らぬ間に疑似体験させてしまうこと。

その異文化を持つ相手は、アメリカインディアンでもアフリカンでもオセアニアンでもエイジアンでもない。そうした歴史的事件と切り離して、誰もが第一印象として気味の悪い相手を、知らぬ間に受け入れて行くという体験ができるようになっている。そのあたりの作りも非常にうまい。


美しいパンドラの世界。血みどろな描写は避けた適度にリアルな人間側の迫力ある攻撃場面。AMPスーツと呼ばれるパトレーバーのような戦闘ロボットも登場するが、基本的な重火器はガス弾、ミサイル、マシンガン、火炎放射器、ナパーム弾、そしてサバイバルナイフ。まさに現代の戦争である。しかしそのリアルさが大事なのだ。フラッシュバックのように現実の戦争場面を思い浮かべる。でいながら、まさに戦争がそうであるように、現場で戦っている者同士に善も悪もないんじゃないかという感覚も残る。そうしたことがさらりと描かれる。

全体としては勧善懲悪的ストーリーとして理解してしまうこともできる。「ポニョ」を人魚が恋をして人間になるかわいい映画として観ることもできるように。でも後味はそれほどすっきりしない。冒険活劇を見終わったような爽快感はない。それは「ポニョ」や、あるいは同じく暫定的な戦闘終結で終わる「ナウシカ」のように、映画は終わっても物語は終わっていないからということもある。


しかしこの感覚は、おそらくもっと根本的なところで、様々な問いの中に取り残されるから生じるものだろう。この世界に放り込まれたら自分はどう行動するのか。何を正しいとするのか。異文化同士が出会う時、相手を理解するとはどういうことなのか。


大佐を悪者と非難することができるのか。RDAの責任者や科学者たちを、狭い価値観に縛られていると非難することができるのか。そういうあなたやわたしだって、第三者から観たら強烈な価値観に縛られているかもしれないではないか。ならばナヴィの文化を本当に理解するにはナヴィになるしかないのか…。


では自分たちの文化を相手に理解してもらうにはどうすればいいのか。現場の人間に問題があるにしても、アンオブタニウムという希少鉱物に「瀕死」で「植物のない」地球の存亡がかかっていたとしたら…。


あるいはまた、キリスト教的宗教観とは異なる精神世界。物質的豊かさではない心の豊かさ。同胞と繋がり祖先と繋がり、自然の摂理の中で大いなるエイワ(パンドラに張り巡らされた植物ネットワークで神に近い存在)の庇護と導きに生きる暮らし。 そういう生き方が西洋文明の外側には、たくさんあったのではなかったか。


もちろん大空を飛び回り、異界の風景や動植物の奇妙な美しさや雄大さに触れ、まさにその世界にいる感覚に浸れることも、この映画の大きな魅力だ。ハレルヤ・マウンテン(下図)なんて最高である。まさにロジャー・ディーンが憤慨するのも理解できる、ロジャー・ディーン・ファンとしてはたまらない景観の数々。


   
そうした映像的魅力とストーリー的わかりやすさと、そこに内包された問題の深さとが、絶妙なバランスでエンターテインメントとして成立しているのが、この「アバター」だと言える。傑作である。

本筋とは関係ないのだが、ナヴィ達との大決戦に向けて人間(スカイ・ピープル)が出撃する場面で、飛び立つ機体を見送る整備兵の帽子が離陸の風圧で飛ぶ場面がある。ちょっとしたことなんだけど、手を抜いていないなぁと感じてしまった瞬間であった。