2013年8月18日日曜日

「な〜こはモンちゃんの主治医になる!」

「モンにゃんは佐藤可士和って知ってる?」

一緒に「風立ちぬ」を見た日の夜
な〜こがそう聞いてきた

「さとうかしわ?? 聞いたことないねぇ。有名な人なの?」
  
「ユニクロのロゴ・デザインとか色々やってる有名人だよ。覚えておいた方が良いかもよ〜。ええっと、ほらこれ。」

な〜こはすぐタブレットでネット検索して見せてくれる
ほぉ最近話題になった「ヤン坊マー坊天気予報」終了も
佐藤可士和によるヤンマーのブランドイメージ戦略から
出てきたものなのかぁ…と感心しながら記事を読む

「この間テレビ見てたら、その佐藤可士和がデザインで会社の業績を延ばすっていう話をやってて、そこでね、自分は“企業の主治医”になるみたいなことを言ってたの。企業がああしたいこうしたいっていうのを手伝うんじゃなくて、この企業は何が足りないとかどこに問題があるとか考えた上で、一番良い手を打っていくみたいな感じ。」

「ふ〜ん、それなら企業から引っ張りだこになるだろうね。」

「それでね、な〜こはモンにゃんの“主治医”だ!って思った。」

「え…、今までの佐藤可士和の話の結論はそこ?」

 「そうだよ。モンにゃんがやりたいことを手伝うだけじゃなくて、気づいてないけどこうしたらもっと良くなるってことをやってあげる。なは〜ん(野菜たっぷりの手作りご飯)もその一つ。」

「いつそう思ったの?今日?」

「違うよ。その番組見た時そう思ったんだよ。」

「…な〜こは…ええ子だねぇ…。」

「風立ちぬ」の余韻もあって
ワタシはちょっとウルウルしてしまった

そんなな〜こは今旅行中で
今週末まで会えないのである
メールのやり取りもできないから
寂しい

今日は調子が今イチで昼寝をした
そうしたらな〜こと手をつないで
森の小道を歩いている夢を見たのだった



2013年8月17日土曜日


正直なところ“まだ”良く分からない

「天空の城ラピュタ」や

「ルパン三世カリオストロの城」みたいに
分かりやすくハラハラドキドキなストーリーではないし
「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のように
強烈なキャラクターや
パワフルな場面に圧倒されるわけでもない

ファンタジックでもないけれど

リアリスティックと言うわけでもない
つかみ所が今ひとつ無いようでいて
だからと言ってつまらないわけではなく
何回も見たくなる要素が
あちこちに散りばめられている

でも思い返せば宮崎映画は

ワタシ的には“ジワジワ来る”ことの方が多かった

第一印象で言えば

「となりのトトロ」も「魔女の宅急便」も
あまりに淡々としていて
ラストのエピソードに盛り上がりが欠けていたし
「風邪の谷のナウシカ」は逆に
ラストがちょっとご都合主義的な気がした
「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」も
物語世界の異界性に比べ
ラストのカタルシスが足りなかった

でも最初気になるそうしたストーリー性の弱さは

何回も見ているうちに大した問題では無くなっていく…
というか
そういう終り方が相応しいように思えて来るのである
  
そうやって作品全体への思い入れや愛おしさは
次第に大きくなっていくというのが
ワタシの中の宮崎アニメ的な特徴だった気がするのだ
そもそもがたくさんの伏線を張り巡らして
ラストで全てを回収して観客を唸らせるという
そういう類の作風では無いのだし…

関東大震災の描写は明らかに

“「崖の上のポニョ」以降”を思わせる大胆なものだったし
田園風景や昭和初期の街並など
俯瞰が多用される絵の美しさは抜群で
それがまた時代の大きな流れを感じさせてくれた

アニメーション的にも

群衆の複雑な動きや飛行機の優雅な動き
主人公達の細やかで美しい所作も素晴らしかった

ここで味わうべきはたぶん

そうした作画や動きの美しさと実直さにも繋がる
“死ななかった人”あるいは“生き残った人”の
悩みつつ苦しみつつそれでも前を向いて
ひたむきに歩く姿なんじゃないかと思う
それも死者への思いをメインに描くのではなく
とにかく何があっても“今この時”を歩み続けた人々の姿だ

震災でも死者は描かれない

ただ思い思いに歩き続ける群衆が描かれるだけだ
戦闘機の残骸は描かれても死んだ兵士は描かれない
美しかった菜穂子は描かれても
衰弱しやがて死んでしまう菜穂子は描かれない

堀越次郎は見方によっては

エゴイスティックで人の気持ちがわからない
仕事中心の技術者に映る
でもそこに描かれる時代背景の暗い影を思うと
どうにもならない閉塞的な状況の中で
一生懸命生きる次郎の姿が浮かび上がって来る

彼はまるで関心が無いかのように

親友である本城のイデオロギー的な言葉を受け流す
彼は信念も主義主張も持たずに
自身の技術と夢だけで
時代に向き合って生きようとしているかのように見える

菜穂子は生きる望みの無い結核を患っている

次郎は一見菜穂子とは逆で
心身ともに充実し才能にも溢れチャンスにも恵まれ
夢に向かって迷い無く突き進んでいるように見える
でも実は彼も淡々とした振舞いの中で
不器用に時代と戦っていたのではないか

だから“今この時”を生きるしかない菜穂子は

彼にとって大事な大事な存在だったのではないか
だから全てを失ってしまった次郎の心を
癒すことができたのは
菜穂子だけだったのではないか
  
恐らく次郎と菜穂子も
菜穂子の死を覚悟していたのであろう
二人は結婚して共に暮らすこと
つまり“今を生きる”ことを選んだのだと思うのだ
だから二人が触れ合う場面は
悲しく美しく愛おしい
  
手を握り合うこと
軽くキスをすること
ぎゅっと抱きしめ合うこと
相手の懐に潜り込もうと身を寄せること
どれもが心に響く

そして露骨な“泣かせる場面”は排してあるから

どこで号泣というわけではないんだけど
逆に言えば全編に渡って
ずっと涙腺がジワジワと刺激されている感じ
これは何なんだろうと思ってしまう
  
いずれにしても
まだ観足りないということだろうな
感想も印象もまだまだ変わっていくことであろう
  
結婚式から初夜に至る場面と
菜穂子が疲れて眠ってしまった次郎に寄添う場面
良かったなぁ

  

「パシフィック・リム」を観た!

 
太平洋の深海から突如次々とKaiju(怪獣)が出現し
環太平洋(Pacific Rim)連合軍が
巨大ロボット(人型巨大兵器)Yeagerで
その脅威から人類を守ろうとするというお話

ストーリーに捻りがないとか
人物描写に深みがないとか
Kaijuに神々しさや重量感が足らないとか
指摘することはできるけど
それをこの映画に求めるのは筋違いだと
切って捨てることもできるくらい
怪獣対ロボットのバトルが凄かったのであった

東宝怪獣映画のプロレスもどきなどつき合いでもなく
(初期)大映怪獣映画の生物同士の殺し合いでもなく
人と獣の肉弾戦という感じなのである

この「怪獣(巨大生物)同士の戦い」は
日本怪獣映画の一つの行き詰まり点だったと思う
平成怪獣映画はゴジラもガメラも
どう戦わせるかの術を失って
結局飛び道具(光線とか熱線とか火球とか)の
撃ち合いになってしまった

「ガメラ3」では確かに最終決戦において
肉弾戦の様相を呈してはいたが
最後の一撃の印象が強い割に
実際にはイリスとほとんど絡み合っていないし

こうした“巨大生物(ロボット)同士の戦い”を
しっかりと迫力満点に見せてくれたことだけ見ても
この映画の意義は高いと言えるだろう

さらに今までの限界を突破してみせたのが

イェーガー“ジプシー・デンジャー”搭載のプラズマ砲
そして対するKaijuの電磁パルスや酸だ

「Godzilla」や「Cloverfield」の怪獣(Clover)に
どうしても火炎や放射能熱線を
吐かせることができなかったハリウッドが
ついにこうした攻撃をKaijuに許したことは
大きなことに思えるのである

こうしてKaijuはさらに怪獣らしくなり
バトルにも広がりが生まれた

右脳と左脳を別々に担当して

二人が互いとマシンにシンクロするという
「エヴァ」っぽい設定を敷いている割に
実際の戦闘では二人がタイミングを合わせて
「よいしょ、よいしょ」って感じで歩いて
「せーの!」って感じでパンチを打つのも
鉄の塊的なちょっとアナクロな外観にマッチして
返って“肉弾戦”ぽい感じを醸し出していた

日本の怪獣映画が
妙に理屈っぽくなってしまったり
新鮮味の無いメッセージにすがってしまったりして
失ってしまったワクワク感が
ここには確かにあると
思ったのでありました

2013年8月16日金曜日

20数年来の旧友との語らい

昨日は二十数年来の旧友と久しぶりに飲んだ

2008年に倒れる直前の夏に飲んで
2010年の退職する直前に飲んで
なんと気づけば3年ぶりなのだった

いやぁ2年ぶりだと思っていたんだけど
3年ぶりだったんだなぁ

2012年のDesign Festaには
わざわざ埼玉から駆けつけてくれたけれど
その時は初参戦だったこともあって
落ち着いて話をする時間も余裕もなかった

飲み屋〜喫茶店でトータル4時間
お互いよくしゃべったのである

教員になって最初の赴任校で同期であった
一緒の職場だったのは4年だけだけど
その後も色々“仕事”をした間柄である

わたしが思いつくままに何か話すと
彼が論理的にまとめたり
ワタシが気づかなかった価値を見つけてくれたりと
“希望”とか“夢”とかいった
何か先にある面白そうなことを見せてくれるのも
いつものことである

かと言って難しい話になるでもなく
カウンセリングをし合っているような堅苦しさもない
何より愚痴の言い合いにはならないのが
飲んでいても話していても気持ち良いのである

楽しかったなぁ
今度は温泉にでも言って
だらだら話をしたいものだなぁ

2013年8月14日水曜日

実家で家族会議

昨日定例の実家手伝いに行ったら
お盆休みということで弟クンがいたのだった

そこで…
ここを逃したらいかんとばかりに切り出した

「お父さんのことだけど…これだけは決めておきたいんだけど…。もしもの時に、病院からこの家に運んでもらうのか、安置施設に運んでもらうのかってこと。
  
現実問題として、お母さんが介護ベッドで寝ているこの部屋に一緒に寝かせるって言うのは、スペース的に無理だと思うんだよ。お母さんが夜中にトイレに行く時なんかに、お父さんを踏んづけるか、お父さんの上に倒れ込んじゃうかもしれないし。
  
それに近所の人や近くの親戚の人が来るとなると、部屋や廊下を占領している荷物を片付けないとだけど、二階に上がれないお母さんの荷物は一階に置いておくしかないから、片付けると言っても結局今とあまり変わらないだろうし。
   
それからカーテンや障子や畳が痛んでいたりするのだって、この状態じゃきれいにする余裕はないから、来た人の目に入っちゃうし。それはイヤなんでしょ?
  
だから…確かにそりゃ可哀想だとは思うけど、家に連れ帰るのは無理だと思うんだよ。」

母サマも弟クンも
自宅には帰してやりたいと思いつつ
この雑然とした部屋に他人が入るのはイヤで
でも片付けようという意欲もアイデアもないようだったから
話がまとまるのかちょっと不安であった

しかし結局それなりに方向性が出たのである

それは
葬儀社にお願いして
当日から安置所に行くことを基本としながら
家に“立ち寄る”というかたちで
1時間でもいいから
この部屋に寝かせてあげられないか
というものであった

“立ち寄る”だけだから
安置の枕飾りもせず人も入れない
あくまで安置場所は施設という考え方である

これなら家の中が雑然としたままでも大丈夫だし
母サマが寝る場所をどうするという問題も生じない

そこでワタシが葬儀社を選んで連絡し
そうした段取りが可能かを確認することになった
やってくれるでしょうきっと

そんな話ができて見通しがついたことは
予想外に非常に大きな収穫であった
  
お盆だからご先祖様が
そういう家族会議の機会を
セッティングしてくれたのかもしれないなぁ