2009年10月31日土曜日

「www HR Giger Com」ギーガー作品集

   
スイス人の画家、デザイナー、HR・ギーガーの絵画・造形作品集である「WWW HR Giger Com (Taschen 25th Anniversary Series)」(TASCHEN, 2007)が届いた。

HR・ギーガーと言えば映画「エイリアン」の造形で一躍有名になったアーティストであるが、わたしはEL&Pの「恐怖の頭脳改革」などのアルバム・アートで知るようになった画家だ。

忘れもしない高校生の頃、池袋の西武デパートのどこかの一角に洋書の画集や写真集が置かれていたコーナーがあった。そこでわたしはギーガーの本来の作品群に出会った。

人間と機械と昆虫が融合したような、サイバーでエロティックで「カッコイイ」世界を“夢見て”手に取った彼の作品集には、ホルマリン漬けのような赤ん坊が無数に並んでいた。

「見ては行けない世界を見てしまった…」

瞬間にそう思った。しかし見てしまったからには記憶から消せない強烈な世界。甘美な吐き気を催させるような未知の快感。

おぞましいのだけれど妙に魅かれる絵の数々。その本にはそんな異様でグロテスクで、幼い高校生の想像力を吹っ飛ばす世界が描かれたいた。

そして本書である。ギーガーというと何となく平面的な構図が多いイメージを持っていた。色使いもモノクロームに近い金属的でリアルなものが多い気がしていた。

しかしここにはポップな色使いがなされたドローイングや、数々のデッサン、建造物の設計図、 立体物、そしてピンバッジまで、今まで見ることができなかった作品が多く掲載されているのが特徴だ。

しかしそれから数十年経って今あらためて見てみても、スゴい世界である。何かこう境界を越えてしまった者の力を感じるのだ。
   
   

2009年10月23日金曜日

「東京都教員採用試験が低倍率」の記事を読んで

今日の朝日新聞夕刊に次のような記事が載っていた。

先生 異例の追加採用人気?の東京、ねらうは東北、九州

小学校の教員採用試験の受験倍率が2倍台と低く、都教委はこれでは優秀な人材が確保できないと嘆いているという。考えようによっては失礼な話である。敢えて東京を選ぼうとしている人たちに対して。

だいたいが都教委は「ボランティア」授業の必修化など、全国に先駆けて様々な取り組みを率先して行ってきている。非常に忙しい教育環境なのだ。先日ポシャったオリンピック招致だって、東京に決まっていれば教育現場にどんな無理難題が降り掛って来だろうと思うと空恐ろしい。

現場は次々に上から降りてくる様々な課題や制度の改変に追われっぱなしだ。まさに自転車操業状態で、これでは

授業の新鮮なアイデアとか、そのための周到な準備とか、きちんとした評価とかができるわけがないじゃないか

と以前から思っていたのだ。

学校(校長)と教育委員会との関係も非常にドライである。これもいかにも東京的である。

開設準備室にいたとき多くの指導主事に合って感じたのは、校長はあくまで教育委員会の下っ端に過ぎないということだった。たまたまその時の校長、そして現任校の校長が都教委経験者だったため、卑屈さがないというか、経験者の自信があるというか、ある意味対等に話をしていたけれど、それは経歴故の特別な関係だった。

基本的に校長にとって教育委員会、指導主事は絶対の存在である。まぁ力のある指導主事は本当によく働いていて、いつ家に帰っているのか分からないほどで気の毒なくらいである。だから一概に権威的であるだけではないことは確かだけれど。

面白かったのは、研究開発校(これに選ばれること自体、学校として相当名誉なことらしい)という文科省の特別指定校になって、その主担当として研究テーマ別分科会に出席した時のこと。

他県では代表校と教育委員会の担当者が並んで席に座り、仲睦まじく研究内容や発表・説明内容について最後の詰めをしているのに、東京都だけは担当指導主事は全く別のところに座って仲間意識の一端も見せなかっただけでなく、あろうことかわたし(東京都)が発表している最中に突然

話が長いので手短に

と口を挟んできたのであった。唖然。多分10グループ近くいた他県の人たちも皆唖然。無礼千万この上なし。

わたしは頭に血が上って、話途中でいきなり「以上です」と言って発表を終えた。話は見事にぶった切れた。さむ〜い雰囲気が一同を包んだことは言うまでもない。

東京都にはそういうところがある。「いっしょにやろう」ではなく「言う通りにやれ」っていう感じ。へんなプライドがあるんだな。

新聞記事では最後に笑わせてもらった。

都会の子どもは生意気そうとか、親もうるさそうというイメージを持たれているが、東京といっても都心だけではない。多摩や離島もあり、田舎と環境は変わりません」

と都教委はアピールしているのだと。こりゃ笑うしかないだろう。
だってこれは

確かに都心では生意気な子どもとうるさい親がいますけど)

って暗に言ってるようなもんでしょう。
それに採用になったら、どこへ行かされるかわからないんだし。「多摩」に行ける確約が取れるんですか?

現実問題として、確かに生徒や保護者など様々な問題を抱えていることは事実なんだから、せめて都教委は、教職員を手厚く保護して欲しいものだ。教員がのびのびと、生徒と接する時間が取れるように、教職員にゆとりのある職場作りを考えて欲しいなぁ。。

いや、無理だな体質的に。教育委員会は首都の教育を背負ってるって自負があるから。そのプライド、というかおごりはちょっとやそっとじゃ捨てられるものじゃない。

だってそもそも東京の教員になることに魅力がないから倍率が下がったんだろうに。そこを考えないで他県に人材を求めようとすること自体、おかしいんじゃないの?自分らを顧みる力が無い証拠だろう。

2009年10月22日木曜日

不調続きな2週間

ドラムのオンステージが終わって
一応の満足を得ながら
憔悴しきった後
腹痛による反動が来たのが先週だった
もうそんなことも忘れていた

水曜日にもがき苦しんで
それでも木曜にやっとの思いで
3週間ぶりの太極拳へ行き
土曜日にウクレレで弾きまくって
復活したかと思った矢先に
こどもが新型インフルエンザになった

気をつけなきゃと思う間もなく
自分が(たぶん)新型インフルエンザに罹った
体調的には翻弄され続けた2週間
地獄巡りの2週間ちょっと間に休憩ありって感じ

恐いのは
今ちょっと「二日酔いシンドローム」の予感
うっすらと漂ってきていることだ
カラダの不調は
弱っているところに響く

今日は「メイラックス」×2錠と
「ベンザリン」×2錠
そして頭痛薬の完全防衛体勢で寝るとしよう

「二日酔いシンドローム」の辛い点は
横になっても眠れない
どういう体勢でも休めないという点だ
まさに二日酔いと同じ
それだけは避けたいのである

そこを切り抜けて
やっと復活ってことになるだろう



2009年10月18日日曜日

ガチャガチャでバルタン星人ゲット〜

性懲りも無く買ってしまいました

新しいガチャガチャを見ると
つい気になってしまう性質なもので
近くの店頭にあった
「Digital Grade」という1個300円の
新シリーズを見つけてしまったのだ

そしてゲットしたのが
かなりリアルなバルタン星人
満足であります
  
  
これはもうサガですね
ウルトラマンとかガメラとかゴジラとか聞くと
いくつあっても
購買意欲が刺激されてしまうのだ

ましてこのクオリティー

いやいや「このクオリティー」とか言って
また買っちゃうところが
もうサガなわけだな
  


  
  

2009年10月14日水曜日

「ありあまる富」椎名林檎


体調はまだ十分ではないけれど
ちょっとだけウクレレを弾く
どうしても「ありあまる富」が弾きたくなった

不思議な歌だなと思う
人生の応援歌ではない
ナンバーワンじゃなくてオンリーワンだと
上から目線で
きれいにまとめた歌でもない

「僕ら」と「彼ら」
搾取される側と搾取する側
椎名林檎と彼女を取り巻き甘い汁を吸おうとするモノたち

うがった見方をすれば椎名林檎は「僕ら」とは違う
「彼ら」に奪われても「返してもらうまでもない」と
自分に自信を持てるのは椎名林檎だからじゃないのかと

でもこの曲にはそうした部分とは別に
とても悲しいものを感じる
奪われて盗まれてうちひしがれたことのある人の姿を

富にあふれているというのは
負け惜しみでも慰めでも開き直りでもなく
疲れ果てて押しつぶされた最後の最後に
すがる思いなのかもしれない

そして最後の最後にその思いにたどり着き
自分の価値に気づいた歌なのだ
自分の存在自体が存在意義だと思いながら
立ち上がった歌なのだきっと

それでも自分を信じて
恨む心や憎む心のエネルギーを
前へ進むために使おうとしている凛とした歌なのだ

だから苦しんできた人ほど
どこか深いところで
共感するのかもしれないな

血みどろな戦いの後の
あるいは死屍累々を前にしての
希望の光のようなものを感じるのである

もちろんコード進行もいいんですよ
ウクレレでも気持ちいいです
前にも言いましたけど

あ 雷が鳴ってる



2009年10月4日日曜日

飛騨高山〜白川郷の旅<オモシロ編>

  
飛騨高山と白川郷の散策中にみつけた
オモシロ光景写真であります

ご存知ファミマも「古い町並」周辺では
古い街並ヴァージョンになっていた
町の景観を守るため
通常の色使いでは許可されなかったそうな

ギーガーのエイリアンを思わせるイス
記念撮影用に店頭に出ていたもの
お店はボルトやナットを組み合わせた
オリジナルグッズなどを置いていた

うなぎ屋さんの入り口近くにあったオブジェ
木彫りだけどリアルなうなぎくんが
こんな低い位置でのたくっているのが
ちょっと妖しい

これは何なんだろうと気になった建物
屋根の上にガラス張りの小部屋?
明かり取りかな展望台かな
行ってみたい〜

「古い町並」から外れて
駅方面に見えた建物
屋上のアンテナの林ができている
共同アンテナ立てなかったのかしら
自転車もあるわ

バス停のある総合案内所から
庄川にかかった「出会い橋」を渡ると
白川郷へと入るのだけど
その橋の上から河原を見下ろしたら見えた
石で作られたミニ・ストーンサークル
子供の遊びかもしれないけど
わたしはなんとなく
賽の河原を思い出した
白川郷という
違う時間の流れる世界へ入ることを示す
サインみたいな感じがして面白かった



2009年10月3日土曜日

飛騨高山〜白川郷の旅<後編>


二日目は高山からバスで白川郷を目指す。でも朝目覚めたら逆に体調は熱海の時ほど劇的な回復はしていなくて、ちょっと不安なスタート。朝ご飯をしっかり食べてバスの中でも少し寝て、次第にカラダが復調し始めてくれた。ありがたい。

空模様は微妙。今にも雨が降り出しそうな気配。でも午前中に白川郷に着いた時点ではまだかろうじて雨は降っておらず、さっそく散策開始。

長い橋を渡って川を越えると、そこは合掌づくり建築の集落が広がる。まさに別世界。近年まで「陸の孤島」と言われ、一時は合掌づくりの家が4軒にまで減ってしまったというこの村落も、1995年に世界文化遺産に登録され、今ではいたるところに合掌作りの家々を見ることができる。

まずは和田家を訪問。一階は見学スペースと住居人の生活スペース。もちろん生活スペースは立ち入り禁止。二階と三階部分は、養蚕で使っていたという天上の低いスペース。様々な器具が並べられている。

合掌づくりの内部構造も手作業の凄さが伝わって見応えがあったが、薄暗く妖しい雰囲気もわたしの好みにピッタリ。外部から閉ざされて生活していた長い時代に思いをはせる。

団体と一緒になるのを避けて、まず村落の一番端にある城山城址展望台へ登る。なだらかな道もあったのだが、急勾配の近道を一気に上って息が切れた。にゃ〜こはそこをハイヒールのブーツで登りきった。すげ〜ぞ、にゃ〜こ。

見事な景色。個性豊かな集落である。今でこそ観光地としての明るさを持っているが、観光地化されていなかった頃は、合掌づくり作業という太い絆でつながった独特な閉鎖的な村落共同体だったんじゃないかなぁ。 村から外に出ると魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界が広がっている、みたいな。

展望台の上で「写真撮っていただけますか」と頼まれ、下りの坂で「展望台まで後どれくらいですか」と2回も聞かれたわたしは、ここでも「尋ねられ人」の本領発揮である。

続いて長瀬家を訪ねる。白川郷最大級の五階建て家屋。ただし入れるのは三階まで。高山の太い柱と梁が幾何学的に配された木造建築も圧倒的だったけれど、この木製のクサビ、捻ったねそ(まんさく)、そして荒縄で作り上げられた手作り感あふれる骨組みも圧巻であった。

平成13年の屋根の葺き替えには、村人や全国からのボランティア500人以上が総出で作業にあたったという。一つ一つがその手作業の跡なのだ。なんか凄いものを見てしまった気分だ。

外に出ると、山中に孤立した村落というよりは里山を思わせる景色が広がり、まだ刈り取られずに残っていた稲穂の黄色が印象的だった。建物の裏に回ると洗濯物が干してあったりして、生活感も感じられるのが面白い。

雨足が強くなり、団体客も次々と群れをなして押し寄せて来たし、バスの時間もそれなりに迫ってきたので、合掌造りのお寺という明善寺に最後に立ち寄って、バス停へ戻ることにする。

しかし、だがしかし、なぜか最後の最後にあった売店で、わたしはどうしても買いたいものを見つけてしまったのだ。それは、ジャ〜ン。「お守刀」。木製の刀である。あ、笑ったでしょ。白川郷の「し」の字ほどにも関係ない、お土産屋にすら最近はあまり見かけない代物。

木刀ではありません、ちゃんと鞘から刀身が抜けるんですよ、って力説するほどのモノではないんですけど。 自分でもわからないんだけど、どうしてもここで買うのだと思ってしまったのだ。

バスで高山へ戻って、前日タッチの差で閉館時間になって入れなかった高山陣屋へ寄る。「全国に唯一現存する群代・代官所」と言われる、江戸時代の御役所である。

時代劇に出てくる御白州(取り調べの場所)やら年貢米を入れておく米蔵やら、その歴史的な存在感と圧倒的な規模にびっくり。

陣屋を出るともう帰りの電車の時間だ。陣屋前の団子屋で団子を買って駅へ。その団子は電車の中でおやつになった。

こうして二日にわたる旅は終わった。今回の旅の特徴は自然の景観を楽しむというよりは、歴史的な建造物(町や村を含めて)を味わう旅だったわけだけど、大げさに言えば、自分の生活環境や生き方を振り返る旅だったような気がする。

家は本来もっと深い世界をはらんでいたんだろうと思う。夜は暗くて恐くて、薄暗い灯りの下で家族が何となく片寄せ合って生きていた場所。でも昼間は風が抜け陽射しを庭の植木がさえぎって、縁側で時が経つのを忘れさせてくれるような開放的な場所。

確かに雨戸はガタピシ動きづらく、ガラス戸は風にガタガタ揺れ、夜一人で便所に行くのは勇気が必要だった家は、不便で陰気だったのかもしれない。でもそこにあった懐かしいものを、この先いつの日か、もう一度手にしたいなぁと思ったのであった。

にゃ〜こと一緒に縁側でお茶をすすれるといいなぁ。



飛騨高山〜白川郷の旅<前編>


病休一周年記念というわけでもないのだが、ちょっと毎日の生活に行き詰まり感があったのと、病休一周年でどれくらい体調が回復しているのか試したい気持ちがあったのと、10月1日が「都民の日」だったという、今の身にはあまり関係ないことも一つの理由にして、飛騨高山から白川郷へ行ってきたのである。

新幹線に乗り、高山本線に揺られて半日あまり。初日は飛騨高山に到着。

飛騨は古くは縄文時代から東西南北の文化が押し寄せたと言われる場所。現在の「古い町並」は高山城を中心とした城下町の商家群なのだそうな。正式には「三町町並保存地区」と言われ、建物は400年の歴史を持つという。

という歴史のこともよく知らないまま、まずは「古い町並」の端にある「吉島家」に到着。なんですが、もう町並自体の古き良き風景にわたしのテンションは急上昇。なんて言うかもう「わ〜わ〜わ〜(凄い〜、懐かしい〜)」みたいな、言葉にならない状態になっていた。

そして吉島家。代々酒造りを家業としてきた豪商の木造住宅。土間の吹き抜けに射す光と影のコントラストの見事さ。

屋内の純日本風な作りの懐かしさと心落ち着くたたずまい。自分の母方の祖母の家を思い出させる縁側。にゃ〜こもおばあちゃん家を思い出すと言っていたなぁ。

大きなガラスがはめてあるガラス戸。狭くて急な「トトロ」に出てきそうな階段。戸袋。意味も無く存在する廊下の片隅の空間。中庭。土塀。忘れていた日本を思い出す。

続いて隣りの日下部民芸館へ。吉島家とともに町家建築を代表する建物。何と天気は予想していたよりも良く、美しい陽の光が土間上部の明かり取りから射し込んできて、どっしりとした木組みの空間に、えも言われぬ美しさを加えてくれた。

太い梁を組んだ非常に大胆な作りなのに、何とも安心感のある落ち着いた空間は、もう見事としかいいようのない、時間を忘れて見入ってしまう美しさ。

たまたまロシア人観光客ご一行様が後から入ってきて、ツアコンらしき日本人が説明していた。彼らにはこういう木造建築はどう映るのかなぁ。

民芸館の人が一生懸命練習していたと思える英語で説明を始め、ツアコンの人がロシア語に直していたんだけど、ツアコンの人は日本人だから英語をロシア語に直す必要はないのだ。

だから「そのまま日本語でいいですから」とツアコンの人が言うんだけれども、興に乗ってしまった民芸館の方がちょっと自慢げに流暢とは言いがたい英語で説明を続けていたので、日本人が英語を話し、それを日本人がロシア語に通訳するという、なかなか面倒くさい光景が展開されていて面白かったのであった。

にゃ〜こと「なんか懐かしいねぇ」「落ち着くね〜」と話をしながら、「古い町並」を散策。

夕方お宿へ着いて、お昼ご飯を控えてまで楽しみにしていた夕食に、舌鼓を打ったのであった。

心配していた体調は、7月に熱海に行った時ほど急激に悪化することはなかったが、やっぱり少し首から上がのぼせたような感じで夜になってちょっと低空飛行気味。

でもひえピタを早目に貼って、結果的には不調とまではいかずに済んだ。

まぁそれまで比較的だらだら過ごしてきたのに、急に長旅に出て歩き回ったからね。楽しい旅ではあってもカラダはストレスを感じ取ってしまうのは致し方ないところ。

でも夜はちゃんと二人してふわふわしながら寝られたから、生活の激変を思えば上々の初日だったと言えましょう。