2023年5月1日月曜日

「PLAN 75」を見たのだ

Amazon Primeで「PLAN 75」を見た。
見ていてずっと辛い映画だったけれど、
最後まで見て良かったと思った。

冒頭の、偏った思想を持った若者による
高齢者施設での大量殺人後らしき場面。

真面目に生きてきた主人公ミチが、
次第に金銭的に追い詰められて、
PLAN 75、つまり安楽死を選ぶ流れ。

確かにここには
高齢者は存在自体が悪であるとでも言うような
リアルなディストピアが描かれている。
施策「PLAN 75」の良い面ばかりを強調するような
いかにもな描かれ方が随所に出てくることが、
逆に痛烈な批判になっている。

しかし、この作品が突き抜けているのは、
現代社会の一部に見られるような、
高齢者や弱者を社会の役に立たない存在と見なし、
さらには、社会の役に立つか立たないかという
狭い視点だけで人の価値を決めようとする思想を、
痛烈に批判している…
だけではないところにあると思うのだ。

主人公のミチだって、
不動産会社で言われたように
生活保護を受けるという道があるのだが、
プライドがそれを許さない。

つまり、仕事を失ったミチは
確かに経済的に追い詰められているのだが、
誰に世話にもならずに
生きたいように生き、死にたいように死にたい
という思いも強く持っている。

そして稲子が家で
誰にも知られずに亡くなり、
そのまま放置されていたのを目の当たりにし、
ミチはきっと、
自分は、静かに、きれいに、
死にたいように死のうと思ったのだ。

つまり、
制作意図には反しているかもしれないが、
死ぬ自由が与えられる
「PLAN 75」という制度は
高齢者当事者にとっては、必ずしも
ディストピアではないかもしれないのだ。

はたから見れば、
社会の同調圧力だ、とか
子どもたちへの
過剰な忖度だ、と見えたとしても
本人にとっては、
追い詰めらて嫌々ながらではなく、
自分の人生を自分の意思で完結させるために、
「PLAN 75」を選ぶ人は絶対にいるだろう。

つまり弱者を否定するような社会的な問題だけでなく、
極めて個人的な、
どうやって自分は死を迎えたいかという問題が、
ここには大きく横たわっているのだ。

映像が美しい。
会話は少なく、音楽もほとんど流れない。
それが良い。

怒りも悲しみも決意も落胆も表に出さず、
死を覚悟してからの濃密な時間を
淡々と生きてゆくミチの倍賞千恵子、
そしておじの鷹たかおの自然体な演技が切ない。

映画内で歌われる
「林檎の木の下で、また明日会いましょう」
という歌は、明日も会えることを
無条件に信じている者同士の会話なんだと、
しみじみと思った。

ちなみに、ワタシ的には
ラストは死にゆくミチの妄想と
役所職員のヒロムの願いが交錯した夢だと思いたい。
突然人気のなくなる、セキュリティー・ゼロな病院。
ミチはベッドで起き上がるまで
致死性ガスを吸うためのマスクを
外していない。
つまり致死量のガスは吸っているはず…。