「歩くひとりもの (ちくま文庫)」(津野海太郎、筑摩書房、1998年)の文庫版あとがきに、ひとりものというと、周りは〝オトコオンナ問題〟としてとらえようとしたがるのにたいし、著者自身はむしろ「都会でひとりで年老いるという状況を自分でどう納得していくか」という〝老人問題〟へ関心が傾いていたと、出版当時を振り返るくだりがある。
「ひとりもの」への関心が高いわたくしとしましても、なかなか面白かった。第二の人生はどう老いていきどう死んでいくかも含んだ人生だから。
そうしたらNHKで、ひとりの老後をどう生きていくかという番組をやっていた。その中で自分の子供たちと同居したいと思っている高齢者の数を、同居したくないと思っている高齢者の数が追い抜いたという話があった。
そうだよなぁ、とそれを見ながら思った。私もそうありたいと常々思っているからだ。そしてそこで紹介されていた年齢を越えたグループホーム(高齢者と女子大生の同居)を見て、昔のNHKの番組を思い出したのだ。確かミヤコ蝶々が出ていて、アカの他人である子ども世代の若者と疑似家族を演じるお話だったなぁと、ネットで調べてみた。
そうしてわかったのが「極楽家族」という1978年のドラマだった。記憶に残っているのは、ミヤコ蝶々演じるおばあちゃんが、疑似家族の中では活き活きしているのに、最後に息子夫婦と同居する場面で、とてもとても寂しそうな表情をして終わるところだった。
そうだよなぁ、とそれを見ながら思った。私もそうありたいと常々思っているからだ。そしてそこで紹介されていた年齢を越えたグループホーム(高齢者と女子大生の同居)を見て、昔のNHKの番組を思い出したのだ。確かミヤコ蝶々が出ていて、アカの他人である子ども世代の若者と疑似家族を演じるお話だったなぁと、ネットで調べてみた。
そうしてわかったのが「極楽家族」という1978年のドラマだった。記憶に残っているのは、ミヤコ蝶々演じるおばあちゃんが、疑似家族の中では活き活きしているのに、最後に息子夫婦と同居する場面で、とてもとても寂しそうな表情をして終わるところだった。
「家族」の一員である限り、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という「役割」を押し付けられる。当時いくら頑張ったって「家族」の中では「子ども」という「役割」から自分が抜け出せなかったように。
疑似家族には、きちんとした「遠慮」や「尊重」がある。「家族」における互いの「役割」を、あくまで「役割」として楽しんでいるだけで、基本のところには対等の「個人」であるという心遣いがある。ここが実際の「家族」と大きく違うところだ。
当時は“斬新”だった設定かもしれないが、
「産業社会を維持するために、外勤労働と家事育児を夫婦で完全に分業するためのシステム」には、子育てや仕事からリタイアした後のことは、含まれていません。」
「フロン―結婚生活・19の絶対法則」
(岡田斗司夫、幻冬社文庫、2007年)より
ということに直感的に気づいていたかのような作品だ。核家族中心のシステムには、高齢者の居場所がないのだ。だから「老後の面倒を見てもらう」という不自由な立場しか残されていない。つまり核家族化した今の「家族」制度は、不完全なのだ。
ドラマでは、親が疑似家族を始めたことで、世間体を気にした実の子どもが同居しようと思い始める設定だったように思うが、そこはやはり1978年的な限界だったろう。
しかしラストでミヤコ蝶々が見せる悲し気な表情は、結果的に高齢化社会において今の「家族」制度には無理があること、そして高齢者自身がそうした有り様にNOを言い始める時代がやってくることを予言していたとも言えるかもしれない。
(岡田斗司夫、幻冬社文庫、2007年)より
ということに直感的に気づいていたかのような作品だ。核家族中心のシステムには、高齢者の居場所がないのだ。だから「老後の面倒を見てもらう」という不自由な立場しか残されていない。つまり核家族化した今の「家族」制度は、不完全なのだ。
ドラマでは、親が疑似家族を始めたことで、世間体を気にした実の子どもが同居しようと思い始める設定だったように思うが、そこはやはり1978年的な限界だったろう。
しかしラストでミヤコ蝶々が見せる悲し気な表情は、結果的に高齢化社会において今の「家族」制度には無理があること、そして高齢者自身がそうした有り様にNOを言い始める時代がやってくることを予言していたとも言えるかもしれない。
わたしはと言えば、「子ども」の「役割」から降りるために、結局大学時代に一人暮らしを強引に始めることになるんだけれども、それはまた別のお話。
とりあえず今思うのは、
いろいろなしがらみから逃れて、
な〜ことつましく暮らしたいなぁ、ということだな。
いろいろなしがらみから逃れて、
な〜ことつましく暮らしたいなぁ、ということだな。