2011年6月28日火曜日

マイ・エレキベースをゲット!


ウクレレ教室の講師でもあらせられる
ウクレレバンドのバンマスの命により
ご指定の楽器屋まで足を運び
店員さんといろいろ話をして
ついにエレキベースを購入したのだ

Deviserというメーカーのもので
オイルフィニッシュしたアッシュ(ash)材をボディに使用し
ブラックなカラーリングに木目が浮かぶという
なかなかシブいものになった

ソフトギグバッグ付きで59,800円は破格値(らしい)

大事なことは楽器そのものが好きになること
愛着を持てる楽器であること
だから弾きたくなる楽器であること
その点では完全に問題無しである

だって単純にこれカッコいいもの
  
そしてメタリックな感じではなく
ブラック&木目という外観が
実はウクレレバンドにも合うと見た

これで四の五の言わせねぇぜ!
いや演奏ではなく楽器のことですけど…

2011年6月24日金曜日

「がんばろう!」は当事者が言う言葉

「がんばろう!」という言葉は
被災者・罹災者だけが口にできる言葉である 
「がんばろう!」は
自ら苦しい思いや辛い思いした人が
そのことを胸にしまいながら
それでも前に進もうとする時に
絞り出す言葉である

力になりたいと思うのはわかる
痛みを分かち合い立ちと思うのもわかる
でも周りの人間は言ってはいけない言葉じゃないかと思うのだ

だからエールとしての「がんばろう!」には
嫌悪感に近い強烈な違和感を感じるのだろう
  
と同時に
では何を言えばいいのか
何ができるのかがわからず
ただ口をつぐんでしまうという苦しさもある
そう…周りもどうしていいかわからず
無力感にジワジワと苦しめられているのだ

まして地震や原発や
そのための風評被害・電力不安を考えれば
東京周辺も被害地域と言えなくもない
この微妙な立場であることも
精神的にキツいところかもしれない
  
だから尚更感じるのかもしれない
繰り返しになるけど
「がんばろう」という言葉は
自分の決意として言うのはいいけれど
被害者に向って言う言葉でないのだ
  
その不用意で無責任な言葉が
被災者を怒らせ悲しませ
そして追いつめる

  

2011年6月20日月曜日

ハンディマッサージャー大活躍

こんなことを書くと
いきなりしっぺ返しのように不調になりそうなので
大きな声では言えないのだが
体調安定が続いている
  
ブログをさかのぼってみたら
6月2日の台風後に体調不良になり
6月4日に気分的ストレス大爆発をして以来
ココロもカラダも
多少の波はあるものの
好調をキープしているのだ

理由にあげられるものはいくつかある
にゃ〜こ復活が大きいかと思うけど
それに加えて良く寝ているし
もちろん頓服用「メイラックス」も活躍しているし
また飲み出したサプリメント「セサミン」とか
ネットで買ったハンディマッサージャーとかも
援護射撃的効果があったように思うのだ

  
この肩たたき機が結構イイ感じ
にゃ〜こも

「肩コリも不調の原因じゃないかって
   けっこうずっと思ってたよ。」

と言ってくれていたんだけど
にゃ〜この家にあった肩たたき機を
初めて使ってみて
肩コリのひどさと
肩モミの効果を実感して
思わず家でも買ってしまったのだ

昔買って家にあるマッサージ機はイスタイプで
実は背中の指圧にはいいんだけど
肩の真上から下に向ってのツボ刺激は不得意なのだ
2,880円でそれが可能となるなら安いもの

ココロの安定と
カラダの内側と外側からの癒しで
この2週間余りを乗り切ったということだろうか

まずは不調回避安定傾向16日目としておこう

どれくらい更新できるか
無理せず見守りたいものである

  

2011年6月18日土曜日

新作CG「幻の妖怪城」

海上に延びる森林地帯
その先には
巨大な僧院がある
  
一見廃墟に見えるその建物は
「妖怪城」と呼ばれている 
広大な森が行く手を阻んでいるので
そこに何がいるのか何があるのか
誰も知らないという

そもそも「妖怪城」のあるこの世界そのものが異界なのである
  
   

2011年6月16日木曜日

「傷病給付金」最終日

休職無給期間を支えてくれた
「傷病給付金」の給付期間が
本日6月16日をもって終る

給付金は日割り計算での月払いなので
実際は来月も今月分を申請することができる
だから6月分の給付金も入るわけだけど
それは6月16日までということになる

最初は後ろめたさがあったが
“傷痍軍人の恩給”とか“労災保険”とか思うことで
後ろめたさをできるだけ払拭し
カラダとココロを休めるための資金として
活用すると思うことにしたのだった

でも当初は一時話題になっていた
「インチキ休暇を取っている公務員」に見られるのがイヤで
半年ほどで退職し給付金も打ち切ろうと思っていたものだ

次第に我がことの重大さに気づき
回復には時間と忍耐が必要だとわかり
結局フルに活用させてもらった

別に何か根拠があるわけではないんだけど
体調の節目として考えていたのは
退職時・給付金終了時・病休3年経過時の3つ

退職はやはり大きく
カラダの不安定さはまだあるものの
気持ちの面ではずいぶんと楽になった
どうしてもまとわりついていた
「職場に迷惑をかけている」 感が消えたからだ

突然休職して迷惑をかけたという自己嫌悪は乗り越えたが
休職し続けて復帰のメドとか代替教員の確保などの件で
「今もなお迷惑をかけている」という思いは
どうしても残っていたのだ
職場に休職者がいるっていうだけでも
やっぱりそこで働くものとしてはイヤだろうし
とかも考えたしなぁ

さて給付金終了はどういう変化を及ぼすか及ぼさないか
  
要するにもう資金面でのサポートは終わりだよ
後は自分で何とかしてねということである
そろそろ自立できるならしてみたらと
言われているような感じでもある

もちろん現実問題としては
まだまだ体調に波はあるし予断を許さないものではあるけれど
そうやって一つの節目って思うことも
何がしかの影響を与えれくれるような気もする
もちろんそれが「焦り」であってはいけないけれど

そう…前に向っていこうとする
カラダの意志みたいなものかな

経済的な面での不安はない
退職金による清貧生活に切り替えるだけですから

2011年6月15日水曜日

「はみだし」と「ビニ本」

CGに興味を持っていただいたのをきっかけに
少しメールのやり取りをさせていただいている方の話題に
「はみだし」と「ビニ本」が出てきて笑った
  
地方の音大を卒業後
東京近くにちょっとだけ住まわれた際
音大に通われていた時の先生から
“都会”でしか手に入らないものを買って送るよう
「いわゆる“パシリ”をさせられてました(泣)」というお話

「ある日『はみだし天国』という本を買って送れ!!という指令がくだり、買った私はその本を黒いビニールでラッピングして、白いペンで思いっきり『ビニ本』と書いて送ってやりました(爆)」

本当に楽しい方(女性)である
もうこの部分を読んで一人大爆笑

ちなみに「はみだし」とは正式名を「はみだしYOUとPIA」と言い
雑誌「ぴあ」でページの欄外を使った
読者からの面白投稿コーナーのこと
  
当時は「ぴあ」という
多方面に渡る情報を網羅した雑誌自体が
目新しく貴重だったこともあったが
雑誌のオマケ記事のようなこの「はみだし」読みたさに
「ぴあ」を買った記憶もあるくらい
かなり楽しんだし話題にもなったものだった
  
「はみ出し天国」とは1986年に発行された
言わば“はみだし傑作選”である
当然「音楽」とも「音大」ともまったく関係ない

で「ビニ本」である
ビニールでくるんで店頭で見られなくした
いわゆるポルノ写真本のことだ
まだインターネットどころか
パソコン自体が特別なモノであった1980年代
この薄消し故に一般流通にのせられない「ビニ本」なるものが
かなり出回った時期があったのだ

当時神田の古本屋街をブラブラ歩くことが良くあって
新しい古本屋が出来たみたいだからのぞいてみようと
中に入ったらデカいビニ本屋だったことがある

それはそれは凄かった
床から天上までビッシリと
ビニールに入ったB5サイズほどの薄いモノが
店の入口から奥まで本棚を満たしているのである
今のマンガ専門店みたいな感じに近いかもしれない

わたしは輸入盤レコード屋へも良く行っていたので
一瞬LPレコードが並んでいるのかと思ったのだが
そこにかもし出されている雰囲気は
もっとアンダーグラウンドな感じで
「来ては行けないところに来てしまった」的な
焦りと背徳感と興味と興奮がないまぜになって
その光景に圧倒され立ちすくんでいたことを思い出す
いやぁ懐かしい…と言えば懐かしい
若かりし頃の思い出

「はみだし」も「ビニ本」もすっかり忘れていたけれど
自分にとってはあの頃あの時代を象徴する言葉であった

久しぶりに神田古本屋街を歩きたくなった
もちろん「ビニ本」屋なんて
もうどこにもないだろうけれど…
  
いや…そういう目的ではなく
あの頃を思い出しながらブラブラと
  
    

2011年6月14日火曜日

「出雲千こ」の手作り腕時計を見てきたのだ

都内のデパートで「夏の職人展」を開催していて
そこで「出雲千こ」というお店が
手作り時計を並べていたという情報を
にゃ〜こからもらったので
さっそく今日行ってみたのだ

行ってみたら以前京都で買った
Dedegumoを含めた3つのブランドを展開する
手作りアクセサリー&腕時計会社であった
昔と名前変わったのかな

デザインはどれもファッション性が高い感じだ

店の人とちょっと話をしたのだが
「JHA(日本手作り腕時計協会)」や
「くるき亭」のことも知っていた
さかんに何とか日常防水対応まで持っていきたいと
熱く語っていたのが印象的であった
それぞれ特徴があって面白いなと思ったのは
「JHA」は個人の時計作家の集団として
作品販売を多方面で展開している
東急ハンズなどでも置いてあったりする
しかし「JHA」というブランド製品はない
  
「くるき亭」は教室は開いているが
作家育成をしているわけではなく
売っているのはくるき亭として作ったものだけだ
そのかわり手作りを基本としながら
大量生産を可能にしている

それに対し「出雲千こ」は
「JHA」のような作家集団ではないが
「くるき亭」のような大量生産も行なっていない
基本的に一点ものを作っているところのようなのだ
だから出会った時に買わないと
手に入れるチャンスを失うことになる

以前Dedegumoに行ったとき見た印象に比べ
時計のデザインもかなり手の込んだものになっていた
Dedegumoにも他のブランド品が置いてあったから
これはブランドの違いではなくて
デザインの変化とか技術の向上みたいなものだろう

こうして手作り時計を比較した時に
個人的にやっぱり「くるき亭」が面白いと思うのは
「くるき亭」は裏蓋とかハウジング(ムーブメントの保護材)
そしてレンズも手作りだということである
売り物であっても基本的にそうなのである
  
他の2つは既製品を使っている
特に裏蓋が既製品でシルバーに光っているのは
わたし的には大いに手作り感を損ねて
どうしても好きになれないのである

手作り時計の作る楽しさや使う楽しさは
やっぱりその手作り感にあると思うのだ
多少ゆがんでいたり汚れていたりしても
そこに作った人の一生懸命さが込められていることが
大事なんだと思う

最近「くるき亭」も下請け発注品が増えてきたようで
以前のような手作り感が薄れているんじゃないかって
ちょっと気がかりではあるが
教室にはそもそもの“手作り志向”が残っていて
それがとてもうれしいのだ
  
それともう一つは
既製品に四角い時計用のレンズや裏蓋がないせいか
他の2つの製品にはガワ自体が四角い時計が少ない
今日見た「出雲千こ」の出展品の中には
確か一つもなかったんじゃないかな
デザイン的に四角く見せているものはあったけど
だからスクエアな手作り時計を学べるっていうのは
「くるき亭」時計教室の特権かもしれない

今日はいろいろな時計を見て刺激をもらった
さらに「出雲千こ」では「パーツショップ」
web上で開いたようなので
手作り腕時計愛好家としては見逃せない
この今までにない試みは
心から大いに感謝・歓迎したい
  
実は通っている教室での販売価格よりかなり安めだったりする
  
  

2011年6月13日月曜日


デンデラ」(佐藤友哉 著、新潮文庫、2011年)を読んだ
姥捨て山には実は
捨てられた者たちだけが村に隠れて作った
もう一つの70歳以上の女性だけの共同体
「デンデラ」が存在していたという
荒唐無稽とは言い切れない
リアルさを含んだ物語である
  
映画「楢山節考」にあるように
かつて姥捨てという習わしが存在したという
その習わし自体が
それを必要としていた村社会の貧しさを物語っている
そうした村は死と隣り合わせであり
それゆえに様々な掟や習わしで
かろうじて村としての命をつないでいるのだ

姥捨ては要するに“口減らし”である
しかしまた極楽浄土へ行けるという
現世の苦しみから解放される
最後の希望でもある

物語は「デンデラ」と呼ばれる
村とは別の共同体で繰り広げられる
“死に損なったこと”(つまり極楽浄土へ行けない)
と“それでも生き続けること”の葛藤
根底に孕んで進んでいく
しかしそれは哲学的思考を突き詰めていくと言うものではなく
感覚的にあるいは対話に導かれ時々顔をのぞかせるだけで
物語のほとんどは
息つく間もないくらいに走り続ける
まるでサバイバルアクションもののように
冬ごもりできなかった巨大な熊が出現と対決
突然広まる吐血して死に至る疫病
「デンデラ」に住む50名近い老婆たちは
次々にそして確実に数を減らしていく

しかし老婆たちは老婆であることを忘れるくらいに動く
まるで彼女ら自身が化け物であるかのように
  
過酷な環境の中で生活し
幾度となく熊との戦いに臨む
デンデラで命を救わ極楽浄土への道が絶たれたことを恨み
おのれの存在の在り方がわからなくなった主人公カユも
そうした戦いの中に飲み込まれていく

しかしそこに生きる意味を見いだすとか
生への渇望を甦らせるわけではない
この淡々とした宙ぶらりんな心情は
実は様々な主義主張を持っているように見える
誰もが抱えているものだ

そしてそこが今のこの時代に生きる
われわれの心情にシンクロする
生きるための目標や目的を見いだせず
目の前に迫ったリアル死の脅威に対してなら必死で戦う
その姿は壮絶でありながら
残り少ない命を輝かせている瞬間でもあるかのように

昨今のホラー小説に比べれば
残忍な描写は少ない
淡々と事実だけが述べられているかのようだ
文体も「です・ます」調なので
昔話を語っているような変に読者を煽ろうともしない

だからこそ一つ一つの描写や
老婆たちの言葉や行動や感情が
ストレートに読者に伝わり
色付けされずに読者の判断にゆだねられる

最後の場面は
それでもある種寓話化された別世界の出来事が
現実世界へなだれ込んでくるような思いを感じた
圧倒的な恐怖と圧倒的な歓喜

映画化されるなんて知らなかった
著者のこともまったく知らない
まったくの偶然で手にした一冊

人は無為に生き続けたいのではない
命をかけてなしとげたい何かを見つけ
意味のある死・満足のいく死を
得たいんじゃないだろうか
そのために「生きたい」と
思うんじゃないだろうか
などと考えたりしてしまった

しかし主人公カユは“ハードボイルド”だなぁ

2011年6月11日土曜日

何度生まれ変わっても自分の人生の登場人物は同じ

人生を舞台だとしよう
自分の人生は自分が主人公だと考えてみよう
  
そこにはいろいろな登場人物が現れる
主人公の知っているところで
あるいは知らないところでも
様々なやり取りは行なわれる

だから主人公以外の登場人物にも
それぞれの人生があり
それぞれが主人公の舞台があるはずである

しかしわたしは敢えてこう思う
わたしという主人公の物語に出てくる人物は
わたしの人生を作る上で決まった人たちなんじゃないか
ちょうどどんな劇をやって役柄が変わっても
劇団のメンバーは限られているのと同じように

つまりわたしの人生に絡む人たちは同じなのだ
ただし繰り返される人生のその度ごとに
配役が異なるのである

ある女性は前世では妻かもしれない
あるいは恋人かもしれないし
職場の同僚かもしれない
ある男性は前世では父かもしれない
あるいは兄弟かもしれないし
宿敵かもしれない

半世紀生きてきて
こうして奔流からはじき出されたような生活をしていると
ふとこうしたちょっと達観したような
不思議な感じを持つことがある

あぁこの人とは現世では友達だけど
友達だけでは言い表せない深い繋がりを感じる
みたいな
何か今世で出会ったにしては説明し難い
もっと深く長い縁による
親しみや懐かしさや安らぎを感じてしまうとか

例えば今まで出会った女性の中で
前世の連れ合いもいたかもしれない
来世の恋人もいるかもしれないが
現世では友人だったり
先生や講師だった
ただ道を聞いてきた人だったりするかもしれない

何かそういう縁とか繋がりを
いろいろな人に
最近感じてしまうのである
自分中心に世界が存在しているわけではないというのは
理性を以て客観的な視点に立とうとする結果であって
人生はすべて自分というフィルターを通して見ているという点で
否が応でも自分中心に回っている舞台に立っているのである
それが不条理劇だとしてもだ

わたしの舞台にはまだまだこの先
前世までにいろいろな場面で重要な役割を果たした
縁の深い人物が登場するのだろうか
初めて会うのにやっと会えたと思えるような人が
待っているのであろうか

舞台は続く
期待は尽きない
  
  

2011年6月7日火曜日

傷病給付金も終わり〝清貧生活〟が始まる

長きにわたりお世話になった
傷病給付金の支給も
今月半ばをもって終わる

仕事ができなくなって3ヶ月の病休後
1年の休職の後から
1年半続いた有り難いお金であった

何かを始めるにはやっぱりお金がいる
月々決まったお金が落ちていくウクレレ教室をやりながら
さらに同じようなドラムレッスンに通えたのも
傷病給付金があるという安心感があったからだ 

ドラム止めたのはお金の問題というよりは
いろいろ抱え込み過ぎたことによるんだけれども…

じゃあ給付金が終わったら生活は変わるのか?
退職金切り崩し生活の始まりである
まぁたぶん変わらないであろう
気持ち的にちょっとだけ
CDの購入量を減らそうとか思う程度じゃなかろうか

っていうか清貧生活を楽しむっていうのもありだな
生活水準に合わせて収入を確保するっていうんじゃなく
使えるお金に合わせて生活を変えていく

ちょうど世の中エコ&省エネ&節電の流れであるし
もっと人として楽な生き方をしてみるっていうのも
いいんじゃないだろうかと思うのだ

働き盛りだの立派な社会人だのといったことは
もうどうでもよろし
社会人として「やれ」と言われれば
大抵のことはまぁなんとかやれるだろうし
実際に今までいろいろな修羅場もくぐり抜けてきたから
そういう生活はもういいのだ

今までやらなかったことや
やりたくてもやれなかったことをやる
お金儲けのためでもなく
社会的実績や評価を得るためでもなく
むしろ晴耕雨読的な日々を過ごす

それには自分の中の時間の流れを
今より意識して遅くしないといけないんだけど
それがなかなか難しいのだ
  
お散歩気分でのんびり歩いているつもりが
気づくと全力疾走して止まれなくなっちゃうヒトですから

  

2011年6月5日日曜日

試作CG「森での出来事4」最終版

神秘さを残しながら光溢れる森になった

GREEN YELLキャンペーン用作品も
試作品が4つになるまでに至った

一作品で基本的な構図をあまりいじらずに
環境や光だけをあれこれ試すのは
今までも当然作品作りの過程ではやっていたのけど
一応の“完成品”として何パターンか作るのは
あまりやらなかったことなので
大変だったが面白かった

“面白かった”と過去形なのは
一応この試作4でバリエーション作りはいいかな
と思っているからである

候補はズバリ
「ナチュラルな試作2」か「光溢れる試作4」
どちらがいいかは今は決めない
時間が経てば自然と決まるだろうから

作品は1点だがポストカードは200枚
その他にはがきサイズ片面1枚で
プロフィールを作らなければならない

オリジナルで行く!と決めた割には
短期集中(得意かも!)で
なかなか良いペースで準備が進んでいるかも

でも注意しないと
短期集中ペースで長期にやり続けてしまうので
意識してブレーキをかけないと…
せっかく今日は復活してきたんだから
登ってきた坂を転げ落ちないようにしないとね