映画「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」(2001年)の制作において、たしか金子修介監督がバラゴンの四つ足にこだわったという秘話があった。着ぐるみで四つ足怪獣を演じると、どうしても膝をついた姿勢、つまり“はいはい”の姿勢になってしまう。四つ足の生物としては後ろ足が不自然なのだ。しかし「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」のバラゴンは膝をつかず、しっかり四つ足で踏ん張って動いている。アクターの苦労が忍ばれる。
しかしその逸話は、もう着ぐるみによる怪獣映画の限界を、図らずも露呈することになったのではないか。
アメリカ版「GODZILLA」や近年の「CLOVERFIELD」で出てくる怪獣・怪物はCGである。そもそもが怪獣と言うより未知の巨大生物であり、日本の怪獣のように火を吐いたり光線を出したりという、非生物的な技は持っていない。まぁリアルなのだと言える。それは時代の流れではあるだろうが、リアルこそがすべてではない。日本の特撮映画はそのリアルさとは違った面白さを持っていたと思うのだ。それは視聴者との共同作業で作られたファンタジーであった。
例えば、古くは「ゴジラの逆襲」(1955年)で、ゴジラは四つ足のアンギラスと対決している。あるいはガメラは「ガメラ対バルゴン」(1966)で、当時は立ち上がらなかったガメラとバルゴンが、四つ足同士の対決をしている。そこに不自然さはない。着ぐるみを忘れさせる迫力がそこにはあった。
アラを探せばもちろん“はいはい”の問題だけでなく、戦闘機にピアノ線が見えるとか、ウルトラマンの目にアクターがのぞく穴が開いているとか、からだに着ぐるみっぽいシワが寄るとか、怪獣の足の指に生気が感じられないとか、色々あるわけだ。
しかし視聴者は怪獣が着ぐるみであるということを忘れるとの一緒に、そうした様々なアラを見なかったことにし、そこでしか味わえない迫力とカタルシスを味わった。そういう暗黙の了解があったと言える。こういう見る側の姿勢は、文楽で人形使いを“いないもの”として楽しむのに似ているかも。だから日本ならではなのかもしれない。
そして日本の特撮映画は独特のリアルな、あるいはリアルを超えた迫力あふれる映像を作り出した。「ゴジラ」(1954)の白黒映像を活かした圧倒的な巨大生物の恐怖感、「地球防衛軍」(1957)で敵の巨大ロボット、モゲラが山肌を崩して現れる時の巨大なスケール感、「モスラ」(1961)で建物を破壊しながら東京を這い進むモスラの幼虫の、低いカメラ目線から得られる圧倒的な威圧感、「大魔神」(1966)の異様な重量感、キングギドラの吐く引力光線の破壊力の凄まじさ、等々。
「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」(1999年)では、飛行シーンでの迫力ある格闘をCGで描いていたが、まだ、嵐の京都で、吹き飛ばされた板きれのようなものが電線にあたってショートするといった、ミニチュアセットならではのこだわりも堪能できた。
しかしバルゴンの四つ足へのこだわりは、実はこうした暗黙の了解の上になりたっていた日本特撮怪獣映画が、ついにその暗黙の了解を捨て、アメリカ的リアルさを追求するかどうかのギリギリの状況に至っていることを物語っていたように思う。
現在まで、ノスタルジックムード満点のウルトラマンシリーズ以外、本格的怪獣映画が日本で製作されていないのは、次の怪獣映画をどういう手法で行くのかが見えないからではないだろうか。ミニチュアセットの手作り感への愛着、着ぐるみ怪獣の実際に動いているという生の存在感、そしてCG映像がもたらすアルな造形と映像の魅力との葛藤。
個人的にはどのような怪獣映画が出てくるにしても、ぜひ怪獣は火か光線を吐いて欲しいなぁと思う次第である。
(写真はどちらも超リアルなガチャガチャフィギュア。上が「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」のバラゴン、下がの「大怪獣バラン」(1958)。後ろ足の使い方が違う。)