2009年1月28日水曜日

「存在悪としての怪獣」への道

先に触れたように「ゴジラ」(1954)におけるゴジラは、水爆による被害者であり街の破壊者という両義的な存在だった。その結果としてゴジラ=悪、という図式は徐々に作られていく。

「ゴジラの逆襲」(1955)では新たなゴジラが姿を現し再び破壊者となる。「ゴジラ」では山根博士が「ゴジラに光をあててはいけません。ますます怒るばかりです。」と発言し、さらに「ゴジラの逆襲」では、ゴジラは光に激怒する体質があるから灯火管制すべきだとする。理由は、ゴジラには水爆実験に対する怨念のようなものがしみついているのだと言うのだ。なぜわかる、山根博士って感じだが、山根博士だけは作品「ゴジラ」が持っていた“被害者としてのゴジラ”を、忘れていなかったということだろう。
    
つまりゴジラは夜の光り輝く大都市を、怒りを持って破壊しにくるのだ。だから上陸したのは東京であり大阪なのだ。ここで大事なのは、ゴジラの破壊に理由があるということだ。アンギラスはおそらく単なる邪魔者に過ぎない。
   
「大怪獣ガメラ」では、まずガメラが襲うのは地熱発電所である。そこでガメラが燃え上がる炎を吸収する姿が描かれる。つまりガメラは餌を求めてやってきたのだ。カメが唯一の友だちだった俊夫少年は、ガメラに対峙している博士たちにこう言う。

「ガメラはひとりぼっちできっと寂しいんだよ。本当は悪いヤツじゃないんだ。カメはおとなしい動物なんだよ。ガメラは寂しいからお友達を探しているんだ。お腹がすくから餌を探しているんだよ。」

子どもなりの表現ながらまさに的をついた指摘ではないか。つまりガメラには餌を求めて大都市に来るという理由がある。だから地熱発電所の次にやってきたのは京浜地帯の石油コンビナートだ。

つまりこの頃はまだ、ゴジラにもガメラにも怪獣として破壊せざるを得ない理由があった。あるいはそれをある程度明確にしておこうという視点があったのだ。

その後のガメラシリーズでは、バルゴンは人間やダイヤを食べ、ギャオスは人間や豚、犬なども食べる。人間が食われるというのは「お腹がすくから」では済まされない恐怖がある。こうしてバルゴン&ギャオス=破壊者&肉食=悪玉となる。相対的にガメラ=善玉の下地ができあがる。ただし戦いは動物の“敵対本能”として行われ、もちろんガメラはまだ人間の味方とか子どもの味方にはなっていない。ただしその後の作品では宇宙人の侵略にガメラが立ち向かうという図式が多くなっていき、対する“悪い怪獣”という存在が作られていく。

東宝怪獣映画は「大怪獣ガメラ」の前に、「キングコング対ゴジラ」(1962)、「モスラ対ゴジラ」(1964)、「三大怪獣 地球最大の決戦」(1964)を発表している。キングコングはファロ島の“巨大なる魔神”だったのを、無理矢理日本へ連れてこられた。キングコングもまた人間の欲望の被害者である。キングコング=被害者=善玉、という図式から、すでに何も背負っていないゴジラ=理由なき破壊者=悪玉となり、ゴジラは存在そのものが悪となる。こちらでも“悪い怪獣”が誕生する。

この図式は「モスラ対ゴジラ」でより強調される。卵を守って必死に闘う母モスラを殺し、卵から孵った幼虫モスラが力を合わせてその仇を打つ。ここではもう人情的にゴジラ=悪が決まってしまう。

しかし「三大怪獣 地球最大の決戦」で地球怪獣代表としてモスラ、ラドンと協力の末、宇宙怪獣キングギドラを倒したあたりから、ゴジラ=人類を助けた=善玉と様変わりしだし、代わってキングギドラのようなゴジラの敵が“悪い怪獣”となっていく。

エンターテインメント性が高まるに連れて、怪獣バトル色が強くなり、なぜ怪獣が現れるのか、なぜ怪獣は街を破壊するのか、なぜ怪獣は倒すべき敵なのかの検討はされなくなり、極端に言えば、ゴジラとガメラとモスラ以外は“悪い怪獣”であり、“悪い怪獣”の存在が自明のこととして受け入れられるようになる。基本的に怪獣は、存在そのものが破壊者であり悪、現れただけで攻撃の対象、抹殺の対象へと変化する。

さらに実は「ゴジラ」以来、怪獣による大規模破壊そのもものや、怪獣同士の戦い自体が、大きなカタルシスを生むことに、
観客が気づいたことも大きい。そこに七面倒くさい理由はいらなくなったのだ。

それは
結果的に次の展開の受け入れ体制を整えたことになる。
次の展開とは?

もちろん、“怪獣退治の専門家”「ウルトラマン」(1966)の登場である。

(写真はすべてガチャガチャフィギュア。上がゴジラ対アンギラス、下がキングギドラ。)