2009年3月31日火曜日

「石田徹也遺作集」

普段書店であまり目にすることのないものにネットで出会うこともある。例えばBeksinski(ベクシンスキー)の画集「The Fantastic Art of Beksinski 」(Morpheus International、1998)や、沖縄の海と人との関係に魅せられた写真家古谷千佳子の写真集「たからのうみの、たからもの」(古谷千佳子、河出書房新社、2008年)。

そしてまた本屋を目的もなくふらふらして偶然出会う場合もある。最近では、すでに知っていたとは言え「small planet」(本城直季、リトルモア、2006年)がそうだ。

そして今日また本屋で出会ってしまった。「石田徹也遺作集」(石田徹也、求龍堂、2006年)である。2005年に31歳で急逝、わずか10年間の創作活動をまとめたものである。
   
   
本人は「自画像じゃないんですけど……」と言う。しかし本人にそっくりの男がほとんどの作品に必ず現れる。それもどこか悲しみをたたえたような、心を閉ざしたような表情で。それも通常考えられない場所に考えられないかたちで。

悲しみと息苦しさと孤独の中で、それに抗おうとせず黙ってそのままの自分を冷静に描いたような、不思議でちょっと不気味な絵の数々。
ベクシンスキーが自分の内的な世界を、一見不気味な風景や人物に投影して描かざるをえなかったのと対照的に、彼は常に自分自身が中心にいる世界、自分と世界との関わりそのものを描かざるをえなかったのか。

様々な作品の世界の中で、この男がその世界に不自然に溶け込んでいる姿を観ていると、石田徹也のこの世界での抑圧された居心地の悪さや、この世界とどこか自分が決定的にズレているという意識みたいなものを感じてしまう。

うつろな目をし無感情な表情をしている男は、声には出さずに静かにうめきながら、安住の地を求めてずっとさまよい続けているかのようだ。

そしてこの数々の作品に不思議な魅力を感じた時、その男は実はあなたでありわたしかもしれない。
  
  
  


「君の手がささやいている」

  
君の手がささやいている 第一章」(1997年)というのは、マンガを原作とする特番テレビドラマシリーズの最初の一本である。なんともすてきなタイトルだ。

聴覚障害者として生まれ、両親に温かかく見守られながら育った主人公美栄子(菅野美穂)が、初めて社会人としての一歩を踏み出し、様々な失敗を乗り越えて、次第に周囲に認められ、理解され、最後に同僚の博文(武田真治)と結婚するまでが第一章の物語だ。

初めて社会の荒波にもまれ失敗を繰り返す本人、周囲の人々の困惑と無理解、そして応援、その中で手話を通して育まれていく二人の愛が描かれていく。物語として、できすぎな感じや、主人公が菅野美穂だからという部分もあるが、聴覚障害者の抱える問題や、周囲がどうやって同じ職場の同僚として障害者を受け入れていくかが、90分ほどのドラマの中に分かり易く描かれている。

10年前くらいに初めて見たのだが、まず感じたのがとにかく菅野美穂の演技がすばらしいこと。言葉を発しない、表情と手話による感情表現の豊かさ。
次に感じたのが、ひらひらと手をうごかしているようで、しっかりした動きのメリハリが意味を持っている手話そのものの美しさだった。愛し合う二人が声の届かない別々のホームで、手話を使って会話をする場面なんて、うらやましく思ったほどだ。
  
  
しかし、何よりこの作品を見てよかったと思ったのが、物語後半、二人の結婚話が出た後で、博文の母親(加賀まりこ)が、美栄子の家を突然訪ねてくる場面である。この場面は何回見ても鳥肌が立つほど凄い。

博文の母親も障害者だと言うことで差別したくはない、でも息子には幸せな結婚をして欲しいと思っている。そのどうしていいかわからないけれど、苦しみながらもギリギリの決断として、申し訳ないが息子との結婚を思いとどまって欲しいと訴える場面だ。

リビングにいるのは博文の母親(加賀まりこ)と美栄子(菅野美穂)、そして美栄子の母(木内みどり)と父(本田博太郎)の4人。おそらく撮影は長回しの一本勝負。息もつかせぬ迫真のやりとりである。

苦しみを正直に話しながら結婚の断念を涙を浮かべつつ静かに訴える
加賀まりこ。それを耳の不自由な娘に分かるようにと手話通訳する木内みどり。あまりの辛さに動揺し手話通訳を一瞬躊躇しながら、それでも最後まで自分からは何も言わず、通訳に徹する運命を全身で受け止めるかのようにじっと聞いている菅野美穂。状況の辛さに耐え切れず途中から席を外して、ろうかに出てしまう本田博太郎。言葉の少ない中で4人の演技が多くを語る。

そして最後に菅野美穂が涙を流しながら「博文さんとは結婚しません」と片言の言葉で言い、泣き崩れる。嗚咽が痛々しい。母親は娘を抱きしめ、父親は廊下で涙を流している。

この数分のやりとり。地味なリビングという動きのない狭い場所での俳優魂をぶつけあうような濃密な演技の応酬。何回見てもその凄さにうなりながら泣いてしまうのだ。

誰も辛いのだ。善玉と悪玉みたいな単純な構図などではないのだ。声高にその主張をしない
博文の母親、だからこそ美栄子もその両親も、親としての辛さをわかるのだ。わがままだとわかっていても、子供に幸せになって欲しいという思いがわかるのだ。そしてその全てを最後にまとめてしまう菅野美穂の存在感。

実は最初に見たのはテレビでだった。何の気なしに目に入ったこのやりとりの場面。それまでのストーリーを見ていなくても目が釘付けになった。それほど演技の濃密さが際立っていた。

ご都合主義的な部分など、テレビだから仕方ないところもあるが、この数分間の演技を見る為だけにも、この作品の価値はある。そういう意味でもこの作品は傑作。本当にスゴい。
  
   

2009年3月30日月曜日

鼻炎薬の副作用と100人呼名

ありがたいことに今年は、今のところひどい花粉アレルギー症状は出ていない。とは言っても5月の連休あたりまで安心はできないんだけど。

医者に行ってちゃんとアレルギー反応検査をして、薬を処方してもらった方がいいといろんな人から言われながら、医者を避け続けてたどり着いたのが今の市販薬である。これは自分に合っている。かなり花粉症の症状を力技的に抑え込んでくれる。
   
   
でも眠くなる、という話は以前したと思う。この眠気も体調とか前日の睡眠時間とかによっては、かなり強力なものが襲って来るので要注意なのだが、副作用は実はもう一つある。それはノドが渇くことなのだ。

鼻水が出ないように抑え込むついでに、ノドの水気も抑えられちゃうみたいなのだ。時期的には乾燥期真っただ中。だから気をつけないとノド風邪をひく。風邪をひかないまでもノドを痛める。具体的には咳が出るようになってしまうのだ。くしゃみと咳の二択か。どっちも困るんだが。でもまだハナたれおやじよりは咳おじさんの方がまだマシだ。

年の入学式呼名の直前一ヶ月くらい、咳が止まらなかったのも、元はと言えば鼻炎薬の副作用からきていたのだ。でも鼻炎薬は止められない。咳止め用の薬やシロップも飲んだ。最後はしかたなくのど飴なめてたら口内炎ができる始末。そして口内炎に耐えのど飴を密かになめながら、100名分の呼名をなんとかこなしたあののである、入学式のことだ。
   
   
今年はそういった晴れ舞台がないから気楽。で、気楽にしていると咳が出るほどノドもひどくもならない。っていうことは、またまたごめんねストレスくん、昨年はキミの影響で咳が治りにくくなっていたってこともあるんじゃないのかな。
   
   

2009年3月28日土曜日

匿名の環境問題非難コメントに思う

教育実習のことを思い出した。中学校で2週間だったかな。大学時代に教員免許状取る為に、現場で実習しなければならないのである。その後母校の高校でも行った。

その中学校での話。実習生は結構たくさんいて、大きな部屋に詰め込まれていた。たまたまわたしの近くの実習生が「家庭科」の女性の方だった。何となく雑談するようになり、休み時間には、お互いどんなクラスかとか、どんな授業をやっているのかとか話をしていた。

その時のわたしはまだまだ「家庭科」というと「料理」「裁縫」みたいな狭いイメージしか持っておらず、その内容が多岐にわたっていることなど知らなかった。だから話をしながら、驚くことばかりで、「家庭科」ってそんなにいろんなことを扱う科目なんだと、感心しかけていたところだった。
そしたら突然、その実習生の友だちらしい女性が、割り込むように入ってきて
  
「まったく、家庭科のこと何にも知らないのね。だから困るのよね。」
  
と怒ってきたのだ。まだ一言も話をしたこともないのに。

わたしと、話をしていた「家庭科」の実習生の人は押し黙ってしまった。彼女も立場上、たぶん友人の言葉が強過ぎたとしても、たしなめることはできなかったのだろう。わたしは、ぐぅの音もでなかった。だってその通りだし、全然知らない人だし。びっくりしてたし。

そして思ったのだ。その“
怒り”はきっと「家庭科」が、これまでバカにされたり、他教科より低くみられたりしてきたという、その人の鬱屈した思いが爆発したものだろうと。きっと言いたくて仕方なかったのだろう。

でもね、例え正論でも、あるいは当然知っているべきことでも、知らないことってあるじゃない、誰にも。その時、感情的にその知らなかったことを責められるとどうなるか。

そのことに関しての関心を失ってしまうのだ。

もうその話題には触れないでおこうと思ってしまうのだ。それは結局、理解者を増やすことにはつながらないのだ。決してプラスにならないどころか、それを見ていた周りの人のことまで考えると、むしろマイナスかもしれない。

「そうなんです、どうしても狭いイメージで捕らえられちゃうんですけど、これもあれも家庭科で扱うんですよ〜。」
  
と冷静に説明してくれれば、自分の無知を恥じ、少しでもその世界を理解しようと言う気になる。

その時のやりとりで感じたことは、後年、夜間定時制高校の生徒や、不登校経験のある生徒と接する際に、とても役に立った。
  
「こんなことも知らないの?」
  
とか
  
「こんなこともできないわけ?」
  
って言ったら、その場でもう理解してもらえる道は閉ざされてしまう。当然人間関係も作れない。

そんなことを思い出してしまった。一瞬教員モードになっていたかも。

まぁ確かに「匿名」氏のコメントは、大人としての節度あるもの言いではなかったからなぁ。「家庭科」の彼女のように、鬱屈した思いをぶつけたかったんだろうなぁ。

あるいは理論武装したご自身の環境論を持っているのかもしれない。
でもおかげでもう「環境問題」への関心無くなったから知りたくもないけど。
   あるいは本当に“子供”かもしれんし。

なんか、突然暴力的な言葉を突きつけられて、次第に落ち込んできた夜中の1時過ぎ。

2009年3月23日月曜日

突然マイブーム歴 <ちあきなおみ>

年代的に「喝采」でレコード大賞を取った(1972年)とかいった断片的な記憶はあった。ものまねの対象によくなってたり、「タンスにゴン」(金鳥)のコマーシャルに出ていたりという記憶もある。でも特に好きな歌手というわけでもなかった。
   
   
そう言えば、年末恒例NHK紅白歌合戦(1977年)で「夜 へ急ぐ人」を歌った時の、髪を振り乱して、まるで何かに取り憑かれたみたいに鬼気迫る姿もうっすら憶えている。「おいで、おいで〜」が相当恐かった。年末のお祭り的 紅白の雰囲気に合わない。合わないんだけど浮くというより、一瞬ちあきなおみ世界にしてしまったような凄みがあった。唖然である。今でもYouTubeで見られるかもしれない。

ちなみにその紅白で白組司会者をしていた山川静夫アナウンサーが思わず「何とも気持ちの悪い歌」と言ってしまったというエピソードが残っていると言うが、そうだろう、うなずける。
   
   
そして彼女のことは忘れていた。ところが2006年のお酒のコマーシャルで美しいアカペラコーラス(一人多重録音)が流れ、耳について離れなかった。これがなんと、ちあきなおみの歌う「星影の小径」だったのだ。安定した甘く深みのある声、細心の注意を払って最大8声が重ねられた優しい優しい声が、ユニゾンからハーモニーへ広がっていく時のすばらしさ。もう絶品。できれば一曲すべてアカペラで通して欲しかったくらい。
CDを買いあさることになってまず思ったのが、彼女は強烈に歌が上手いということ。演歌からムード歌謡から、ニューミュージックからポルトガルの国民歌謡ファドまで、すべて自分の歌にして歌う。情感を込めすぎない。技巧を前に出さない。そして情景が浮かぶ。
実は 2000年に出した6枚組CDボックス「ちあきなおみ・これくしょん ねぇあんた」が、1万円を越える価格ながら異例の大ヒットとなって、以降ちあきなおみ再評価のブームがじわじわと高まっていたらしい。それは全然知らなかった。だからブームの後追いのマイ・ブームなのだ。
彼女は1992年、夫が亡くなるとともにマイクを置く。そしてすべての公式の場から姿を消し、未だに沈黙を守ったままだという。彼女の半生は「ちあきなおみ 喝采、甦る。」(石田伸也、徳間書店、2008年)に詳しい
   
   
ちなみに「星影の小径」の次に、ファドの日本語版「霧笛(難船)」が大のお気に入り。もうこれらの曲が流れ出すとわたし動きが止まります。動けなくなります。
  
   

2009年3月19日木曜日

「ためだこりゃ」 いかりや長介

   
今ザ・ドリフターズの再評価の波が凄い。テレビでも「8時だョ!全員集合」の名場面集などを放送したりしてるし。傑作選DVDも人気だ。

面白いのは、当時「8時だョ!全員集合」をリアルタイムで見ていたわたしたちが、懐かしさで喜んでいるだけではなく、当時の自分たちと同じ年代の小学生くらいの子供たちが喜んで見ているということだ。

しかしそのザ・ドリフターズが音楽バンドであったことは意外と忘れられている。特にいかりや長介は米軍キャンプ内のクラブでベースを担当していた。そこでお客を楽しませるために始めたちょっとしたギャグが、その後につながるのだ。

確かにすでにクレージー・キャッツという音楽ギャグのできるバンドがあり、輝いていた時期ではあったが、始めからそこを目指して音楽活動を始めたわけではなかったと言う。もともとは、いかりや長介:ベース、加藤 茶:ドラムス、高木ブー:ギター、仲本工事:ギター、ボーカル、荒井 注:ピアノという編成の音楽バンドなのだ。それがポスト・クレージー・キャッツとして音楽ギャグのできるバンドとして白羽の矢が立ち、特異なスタイルのお笑いグループへと変身していく。

「だめだこりゃ」(いかりや長介、新潮文庫、2003年)には、そうした“ドリフ以前”のバンド生活から“ドリフ後”の俳優生活までを振り返った、著者の自伝である。実際にハードカバーで出たときには、「だめだこりゃ いかりや長介自伝」というタイトルだった。

筆者の語りがやわらかい。そして冷静だ。

「ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなく、このメンバーの位置関係を作ったことにあると思う。」
    
「私たちの笑いは、ネタを稽古で練り上げて、タイミングよく放つところにある。私たちはバンドマン上がりらしく、『あと一拍、早く』『もう二拍待って』とか、音楽用語を使ってタイミングを計りながら稽古した。」


(立ち稽古風景 1970年9月「だめだこりゃ」より)


位置関係とは、いかりや長介=権力者、残りの4人は弱者という構図。さらに4人のカラーも、「反抗的な荒井、怒られないようにピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えてるんだかワカンナイ仲本」というキャラクター作りのことだ。

そして伝説の「8時だョ!全員集合」が1969年に始まる。なぜ“伝説の”なのか。それは1時間番組を、毎週、公会堂などを使って公開生放送で行うという、今では考えられないことを、なんと16年間も続けたという凄さにある。“奇跡”の番組と言ってもいい。

毎週毎週新しいギャグを考えきっちり稽古をし、公開場所にセットを組み、怪我のないように注意しながら、始まったらカラダをはって1時間を乗り切る。やり直しや編集は利かない、一発勝負。それも時間枠内で、きっちり見せて、会場も、お茶の間も楽しませる必要がある。

「ドリフは素人芸で全然しゃべりが、特にアドリブのしゃべりができなかったからだ。
 ドリフは子供をターゲットにしたお笑いと分析されたり、レッテルを貼られたりするが、我々にそういう意識はなかった。動いて笑いをとる。動きで笑いをとるということを実践していただけだ。言葉に頼らない笑い。だから子供でも笑える舞台ができたのだと思う。」

そう言えばウクレレについて触れた部分があった。なんかそのくだりも読んでいてうれしくなってしまった。

「ホントはウクレレって大変な楽器だと思う。弦が多い方がごまかしも利くし、弦が長い方が音が低くて失敗を気取られにくいし。非常に繊細で、難しい楽器なのだ。」

そして「すべては成り行きだった。偶然だった。」と振り返る著者に、すごく温かい眼差しを感じてしまう。舞台裏の話も面白いけれど、淡々と語るこの語り口が、やさしくあたたかい。読んでいて、とても心地よい本でした。

2009年3月17日火曜日

「天水」 花輪和一

  
     
「天水」(花輪和一、講談社漫画文庫、2009年)は、「刑務所の中」(青林工芸舎、2000年)で知られる花輪和一による童女と河童との旅物語。
花輪和一という漫画家は「刑務所の中」以前から、独特な画風と世界観でカルトなファンを持っていた。大学時代に結構読んだ記憶がある。
この作品は1992年から1994年にかけて、「月間アフタヌーン」に掲載された作品に、2003年の描きおろし作品を加え「完全版」と銘打った連続短編集である。
大筋としては、童女が困難に遭いながらも自分の母を探し求め、カッパがそれを助けていくのだが、カバーに書かれている“和風冒険ファンタジー
”と言う言葉にダマされてはいけない。ファンタジーという言葉は似合わない。むしろ地獄巡りの旅か。

時代は日本の中世。そこここに闇が当たり前のように存在していた時代。主人公は一人暮らしの童女と、突然現れ一緒に暮らすようになる河童。それだけでも異質。

そして何より絵が怖い。童女もかわいらしいのだけれど、どことなく大人びた顔立ちだし、河童もひょうきんな雰囲気を持ちながら、気持ち悪さが抜けない。どちらも妖しい。でもそれは主人公の妖しさではなく、彼らが生きている世界の妖しさなのだ。

その妖しいキャラクターが、モノノケに取り付かれたりすると、当然不気味さは倍増する。グロテスクですらある。ある種「ゲゲゲの鬼太郎」的な妖怪、モノノケ退治物語的な部分も多いのだが、絵の持つパワーやストーリーが、敵を倒して、めでたしめでたしで終わらない不思議な感情につながっていく。読んでいるうちに、もうその世界の住人になっているからかもしれない。

モノノケや鬼やオロチなどが、敵とか見方とかではなく、当たり前に身近にいる存在なのだ。不思議な世界だけれど、記憶の奥の方にしっかり残っている、かつての日本に存在していた世界。

「たそがれどきだ だんだん人の顔が みえにくくなってくる
 神隠しに あうのは きっと こんな 時なんだろうな...…」


童女のそんなつぶやきが、当たり前のように心に入ってくる。そんな世界。ハマリます。何となく諸星大二郎の作品を思い出してしまいました。

2009年3月8日日曜日

「ハレンチ学園 」の衝撃

  
「ハレンチ学園」は永井豪が1968年から1972年まで「少年ジャンプ」に連載されていたギャグ漫画だ。エッチな場面を盛り込んでいたため、それまでマンガの中にそうしたタイプのものがなかったこともあって、超人気作品となった。

もちろん今から見れば健康的なエッチ場面であり、個性的なキャラクターやストーリー的な面白さも十分持っていたのだが、
当時このマンガの影響で小学校でスカートめくりとかが流行ったりしたこともあり、当時はその性的表現が過激過ぎるとして、かなり批判された。

まぁ最近復権著しいドリフターズの「8時だョ!全員集合」みたいな感じかとか思って、大人のことなど関係ないやと読んでいたら、関係ないどころではなかったのだ。

1970年頃はまだマンガ読んでると勉強しなくなるというような偏見が強かった。そこに、さらに批判のマトになり易い性的表現が含まれていた「ハレンチ学園」は、PTAなどから強烈な批判を浴びた。その強烈さは相当なものだったらしく、ついに永井豪は「ハレンチ学園」を終わらせることにしたのだ。ただしギャグマンガ、というより少年マンガ誌史上かつてなかった壮絶な戦争描写で。

第日本教育センター”なるPTAと文部省が合体したような組織が、ハレンチ学園を力でつぶそうとしてくる。そして「ハレンチ大戦争」というリアルな戦争が始まるのだ。連載は1970年半ばのことである。これは当時小学生であったわたしを含む読者みんなにとって、相当にショッキングなことだったと思う。

だって
ギャグマンガだったのが、キャラクターはそのままに戦争に突入、時にギャグを交えながらも、殺しあいの場面が延々描かれるのだ。ハレンチ学園の個性豊かな先生たちも、一人また一人と殺されていく。生徒もまさに戦争に巻き込まれたかのごとく、簡単に死んでいく。

戦争のリアリティを、予期せず、というかむしろ気を許していたエッチギャグマンガで見せられてしまったのだ。まだまだイメージできていなかった「戦争とは殺しあいなんだ」という事実。人が殺されるっていうのはこういうことなんだっていう視覚イメージ。不条理な死。自分の反戦の気持ちの基礎は、ここで培われたと言っても言い過ぎじゃないんじゃないかな。
「ハレンチ学園」自体はすでにここで完結している。ただ編集部の強い意向から、その後を描く第二部、第三部が存在するというが、わたしはそれは読んでいない。わたしの中では、あの壮絶な殺し合いで学園が滅んだところで「ハレンチ学園」は終わっている。
なんてことをふと思い出したら、復刊されていた。「キングシリーズ小池書院デラックス」として六巻まで出ているが、問題の「ハレンチ大戦争」は第一部扱いになった最初の連載分の最後として、第三巻に入っているらしい。

どうしよう。買っちゃおうかな。

2009年3月7日土曜日

「解体屋外伝」いとうせいこう

    
2008年に河出文庫で復刊した「ノーライフキング」(1988)で子供たちの“リアル”に迫り、「ワールズ・エンド・ガーデン」(新潮文庫、1993年)で1995年のオーム問題を予見するかのような、伝道師(グル)を中心とした解放区ムスリム・トーキョーを描いた、いとうせいこう。

彼の「解体屋外伝」(講談社文庫、1996年)は、洗脳のプロ・洗濯屋(ウォッシャー)と洗脳外しのプロ解体屋(デプログラマー)の戦いという、設定だけ聞いてもワクワクするほど魅力的な、ある意味“オーム以後”のリアルな世界を描いた傑作。乞う復刊。

そこに出てくる忘れられない言葉がある。解体屋自身が自分を見失いかけた時、友から繰り返しかけられる言葉。

「暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。」
「暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。」
「暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。」

そして解体屋は失いかけた自分を取り戻す。
それは今でもわたしのココロに響く言葉の一つ。

「暗示の外に出ろ。俺たちには未来がある。」

2009年3月6日金曜日

「バンドネオンの豹と青猫」あがた森魚

  
あがた森魚と言えば、古くは「赤色エレジー」のヒットで知られる非常に個性の強い歌い方をする歌手。ヒットした当時でさえ時代錯誤的な歌としてインパクトがあった。

でも「赤色エレジー」の昭和哀歌的世界は彼の一部に過ぎず、というか結構異色なシングルヒット作に過ぎず、彼本来の世界は夢と冒険と哀しみと優しさに満ちた、不可思議で懐かしい世界なのだ。

「バンドネオンの豹(ジャガー)と青猫」は、1987年発表の「バンドネオンの豹(ジャガー)」に始まるタンゴ三部作の第二部にあたる同年1987年の作品。タンゴ作品と言ってもオリジナルのタンゴを大切にしながらも、独自のあがたワールドにタンゴ色を取り入れた感じ。

第一部の「バンドネオンの豹(ジャガー)」の方がオリジナルタンゴへの敬意とノスタルジーが強く、タンゴの名曲に自身の詞を乗せて歌ったりしている。しかしバンドネオンにからむのはヴァイオリンかと思いきや、バリバリの高速エレキギターだったり、矢野顕子が競演した摩訶不思議な曲があったりと、意表を突くオリジナリティー豊かな曲が満載。

それに比べてこの第二部「バンドネオンの豹(ジャガー)と青猫」は、過ぎ去りし心熱き日々を振り返るような寂しさ、空しさが込められていて、第一部よりしっとりと、内省的で、なぜか涙ぐんでしまいそうになる世界に浸ることができる。それでもLP時代のB面は「バンドネオンの豹と黒猫」のためのサウンド・トラック」という21分にも及ぶ組曲。

バンドネオンとエレキギターの組み合わせなどの音楽的冒険や、シングルヒットを考えずにアルバムの完成度を求める点では、この2枚はプログレッシヴ・ロック的ですらあると思う。

彼の歌唱法は独特で、半ばモノローグ的な要素が入っているため、音程がメロディーに一致しない、というかメロディーに縛られない。でもハマると抜け出せない強烈な魅力があって、他の誰にもまねできない悲しさや美しさを伝えてくれるのだ。

ちなみに高圧線の歌はこの“サウンドトラック”に出てくる歌だった。不思議ワールドでしょ。そう言えば第三部って未だに出ていない。ずっと待ってるんだけどな。
    
   
「電気に話しかける猫」 

 風に綿帽子飛びて 高圧線に踊る
 風に綿帽子去りて 高圧線に響く  
 むかし僕らが住んでた ラジオの聴けた街では  
 識らぬ星の旅人 銀の空を撫でてた  
 月に赤い馬飛びて 高圧線に跳ねる  
 月に綿帽子降りて 高圧線は残る  
 むかし僕らが住んでた 映画に映る街では  
 人とポプラのざわめく 影帽子の空に  
 どのあたり 電気猫  
 電気に話しかける電気猫  
 くるりと宙返り  

 どのあたり 電気猫  

 電気に話しかける電気猫

2009年3月4日水曜日

桂枝雀と桂文楽

昨晩は、お気に入りの催眠剤レンドルミンも飲まずに眠れた。そう言えばまだ学生時代だった頃は寝る時に枕元にラジカセもって来て、寝る時に布団に入って電気を消してから、音楽や落語を聴いていたなぁと思い出した。そこで夕べはベッドに入って部屋も暗くしてからヘッドフォンで音楽を聴いて寝た。これ結構寝入るのにいいみたい。
そこで思い出したのが大学時代のこと。よく寝る時に聴いていた落語は、ほとんどが、桂枝雀か桂文楽のものだった。桂枝雀はラジオのエアチェックや、当時テレビで毎週やっていた番組「笑いころげて たっぷり枝雀」を録音したものだ。ラジカセのラインイン端子とテレビのイヤフォン端子をつないで、テレビを見ながら、最後に落語が始まると録音していたのだ。マメだったなぁ。

そして桂文楽。古今亭志ん生とともに落語会の2大スターなこの人のものは、実は大学の図書館にあった「桂文楽落語全集」みたいな全集ものを、密かに録音したものなのだ。あ〜カミングアウトしてしまった。
図書館所蔵のLPは貸し出しはされず、図書館内のブースで聞くことになっていた。そこで当時使っていたラジカセが意外と小さかったのをいいことに、ラジカセをバッグに入れて、何食わぬ顔をしてレコードを借りブースへ行くと、周りに見られないようにブースのヘッドフォン端子をラジカセのラインイン端子につなげ、一枚一枚録音したのである。すげぃ根気。執念と言ってもいいかもしれない。

なので今でも
実家にカセットテープの文楽全集もどきがあるのだ。桂枝雀のテープと一緒に、デジタル化できたらいいなぁ。

ちなみに桂枝雀は爆笑王の名を欲しいままにしながら、うつ病となり、いったん回復して高座に上がるが再発、ついには自ら命を絶つ。

一方桂文楽は、舞台上で、話の中のある人名が出てこなくなり絶句、土下座をしながら「台詞を忘れてしまいました…申し訳ありません…もう一度…勉強し直してまいります。」と言って、話の途中で高座を降りてしまったきり、以後二度と高座には上がらなかったという。

二人の落語を聞いていると、話芸のすばらしさに心ウキウキしてしまうけれど、二人とも芸に対して、鬼気迫るほど真剣だったんだなぁと思う。

酔っぱらって高座に上がり、途中で寝ちゃったり、違う話になっちゃったりしても客は喜んでいたという、古今亭志ん生みたいな生き方もいいけどね。
(写真は上右が桂枝雀、左下が桂文楽)

2009年3月1日日曜日

NHK「うつ病治療 常識が変わる」

「100万人を越えたと言われるうつ病患者。その半数は症状が再発、25%は治療に2年以上かかるなど、長引くケースが増えています。」
   
と始まる「NHKスペシャル『うつ病治療 常識が変わる』」(2009.2.25 深夜1:00放送)を見て、“不服薬計画”発動を決めたのだった。理由はいくつかある。


まず、うつ病患者にも色々なケースがあるし、新しいタイプのうつ病も出て来ていて、医者側のうつ病の診断や治療も困難になってきているという話が出てはくるのだが、やはり自分の症状は、うつ病と違うと思うのだ。振り返ってみても違う。食欲落ちないし。死にたいと思ったことは一度もないし。

そして服薬への不安。服薬量を見直して半分以下にした女性が劇的にうつ状態から改善する例が出てくる。うつ病の見立てとか薬の役割とか、根本的なところを考えずにただ漫然と薬を出してしまうケースも少なくないという。薬の量が増えて来ている自分の現状がダブった。

さらにセロトニンの働きを高める代表的な抗うつ剤SSRI(わたしが飲んでいたジェイゾロフトもこれ)は、過剰摂取すると脳内に異変が起きる。セロトニンが増え過ぎるとうつの症状が治まると同時に、意欲・やる気を出すドーパミンが減ってしまうというのだ。

ドーパミンが減ると無気力な状態になる。そしてそれがうつ症状に似ているので、抗うつ剤が効いていないと誤解され、抗うつ剤の量が増えるという悪循環。ひどいとめまいやふらつき、突然の転倒にも至るという。

もし自分がうつ病でないのに抗うつ剤を飲み続けていたら、知らない間にこの悪循環にはまってしまうのではないかと恐ろしくなった。

そして、いったん薬を切るべきだ。そう思ったのだ。

そしてこのブログでも紹介した「うつ病をなおす」(講談社現代新書、2004年)の著者、野村総一郎氏が紹介したのが下図である。



患者は、もの凄い勇気を持って主治医に質問したりお願いしたりする。うつ病であるのだから、そのエネルギーは大変なものである。だから、主治医側からの接し方が大事なのだ。そして薬以外の対応法を知らない。か、どうかはわからないけど、残念ながら、通院していて薬以外の対処法の話が出たことはない。また受診時間も5分くらいだ。込み具合が凄いから仕方ない部分もわかるんだけどね。

軽いうつが長く続く「気分変調症」、過食や過剰睡眠などの症状が出る「非定型うつ病」など、新しいタイプのうつ病も紹介される。精神科医にとって非常に難しい時代になったことは確かだ。でもある女性が良い病院を探して5カ所回ったところ、医師によって出された薬が全く違っていたという場面はショックだった。

私にとっては、夜中にすでにベッドに入っていたにも関わらず、どうしても「不服薬宣言」したくなるくらいの番組だったのだ。