本作の魅力は他の怪獣映画にはない暗さにある。
物語は第二次世界大戦末期、ドイツから「フランケンシュタイン」の心臓が同盟国であった日本へと密かに送られるところから始まる。この心臓はタンパク質さえ与え続ければ、永久に生き続けるというものであった。
物語は第二次世界大戦末期、ドイツから「フランケンシュタイン」の心臓が同盟国であった日本へと密かに送られるところから始まる。この心臓はタンパク質さえ与え続ければ、永久に生き続けるというものであった。
日本ではこれを使って、弾が当たっても死なない肉体を持つ兵士を作るための研究を行なうことになる。とその時、研究所のある広島に原爆が投下されてしまう。
1965年と言うと、戦争の記憶がまだ鮮明であり、その色が強く現れていた1954年の「ゴジラ」から、さらに10年以上が経っている。特撮映画も「ラドン」、「バラン」、「モスラ」などの怪獣が登場し、原爆や戦争の恐怖の具象化としての怪獣から、怪獣の存在理由の一つとしての原爆や核実験といった“逆転現象”が進んだ時期だ。
従って本作でも広島の原爆はあっさりと描かれる。放射能を浴びても影響を受けない子ども(フランケンシュタイン)の特異さと、その後の身長20mにま達する異常な成長を理由づけするためだけに持ち込まれた設定であるかのようだ。
その安易さに比べ、むしろ「死なない兵士をつくる」という大戦末期における発想や、登場人物が述べる「戦争末期にはわけのわからないことがたくさんあった…」という述懐が、妙にリアルな印象を残す。
物語はこのフランケンシュタインの成長と彼を科学者的立場で守ろうとする戸上季子(水野久美)らの研究者を軸に進んでいく。研究所の戸上は彼を「坊や」と呼び、「わたしがいれば暴れることはないんです」と周りに告げる。しかしそうやって彼女に心を許すフランケ ンシュタインとは違い、戸上はクールである。どこまでも彼を信じ彼を庇おうという域にまでは至っていない。フランケンシュタインの報われない思いが切ないし、自分を受け入れてくれる場所がこの世にまったくないという究極の孤独が、見ている者の胸を打つ。
「キングコング」が、異形の怪物が決して成就されない人間の女性の愛を求めた悲劇だとすれば、本作は異形の怪物が決して成就されることのない母親の愛を求めた悲劇として展開していくのだ。
巨大化することでやがて檻に入れられ、手かせをつけられる彼。それを見せ物のように写真を撮りにくる取材クルー。例え戻れないとしてもキングコングには南海の島に自分の居場所があった。しかし彼にはそうした場所は一切ない。存在そのものが許されないのだ。ただただ逃げるしかない。目立つ巨体と飢えとに苦しみながら。
しかし最後、彼はバラゴンという肉食で人をも食べる地底怪獣と、人間あるいは戸上たちを守るために戦う。そして勝利とともに地中に飲み込まれていく。このいたたまれなさ。不死身の肉体を持つ存在だと思っても、怪獣に何の武器も持たずに果敢に挑んでいく細身の姿が痛々しい。
ストーリー設定だけではない。それを補ってあまりある特撮技術の素晴らしさも特筆ものである。日米合作ということもあり、“洋画の巨大怪物サイズ”を採用、身長20メートルは従来の「ゴジラ」や「ラドン」の約半分の大きさとなる。このためミニチュ アセットも従来の半分の大きさということで、巨大怪獣映画よりもリアル感が増している。
フランケンシュタインが戸上の住む団地に会いに行くシーンや琵琶湖で水中から 突然現れるシーン、そして意外とかわいい顔をしているバラゴンの家畜やバンガローの襲撃場面も、不気味な空気感と異様な迫力に満ちている。最後の対決場面での素早い動きによる両者の戦い方も動物的だし、バラゴンの倒され方もリアルだ。しかしまた山火事の炎をバックに勝利の雄叫びを上げるという合成によるケレン味ある演出も素晴らしい。
そしてフランケンシュタインの特殊メイクがまた絶品。今の技術から考えれば稚拙かもしれないが、それを感じさせない不気味さと、その奥に感じられる悲しみが伝わってくるのだ。子どもの頃に見た時は、その異様な暗さに圧倒された覚えがある。今見返してもその凄さは少しも衰えていない。
そこには直接的な戦争の影はもう描かれてはいない。むしろ一見戦争は過去のもの、映画の設定上必要だったものに過ぎないかのようである。しかしこの絶対的な孤独の中に放り込まれた異形なる怪物に、わたしはどうしても戦争孤児の姿を見てしまうのだ。それも、頼るものもなく、受け入れてもらえる場所も注がれるべき愛情もないまま、飢えと孤独の中で死んでいった子どもの姿を。
一連の特撮怪獣シリーズとも「電送人間」などの変身人間シリーズとも異なる、あるいはその両者を合体させることで新たに作り上げることのできた、東宝特撮映画史上稀に見る傑作。この画面やストーリーが放つ比類なき重苦しさは、決して今の映画にはない、いや、もう二度と出せないものなのだ、きっと。
従って本作でも広島の原爆はあっさりと描かれる。放射能を浴びても影響を受けない子ども(フランケンシュタイン)の特異さと、その後の身長20mにま達する異常な成長を理由づけするためだけに持ち込まれた設定であるかのようだ。
その安易さに比べ、むしろ「死なない兵士をつくる」という大戦末期における発想や、登場人物が述べる「戦争末期にはわけのわからないことがたくさんあった…」という述懐が、妙にリアルな印象を残す。
物語はこのフランケンシュタインの成長と彼を科学者的立場で守ろうとする戸上季子(水野久美)らの研究者を軸に進んでいく。研究所の戸上は彼を「坊や」と呼び、「わたしがいれば暴れることはないんです」と周りに告げる。しかしそうやって彼女に心を許すフランケ ンシュタインとは違い、戸上はクールである。どこまでも彼を信じ彼を庇おうという域にまでは至っていない。フランケンシュタインの報われない思いが切ないし、自分を受け入れてくれる場所がこの世にまったくないという究極の孤独が、見ている者の胸を打つ。
「キングコング」が、異形の怪物が決して成就されない人間の女性の愛を求めた悲劇だとすれば、本作は異形の怪物が決して成就されることのない母親の愛を求めた悲劇として展開していくのだ。
巨大化することでやがて檻に入れられ、手かせをつけられる彼。それを見せ物のように写真を撮りにくる取材クルー。例え戻れないとしてもキングコングには南海の島に自分の居場所があった。しかし彼にはそうした場所は一切ない。存在そのものが許されないのだ。ただただ逃げるしかない。目立つ巨体と飢えとに苦しみながら。
しかし最後、彼はバラゴンという肉食で人をも食べる地底怪獣と、人間あるいは戸上たちを守るために戦う。そして勝利とともに地中に飲み込まれていく。このいたたまれなさ。不死身の肉体を持つ存在だと思っても、怪獣に何の武器も持たずに果敢に挑んでいく細身の姿が痛々しい。
ストーリー設定だけではない。それを補ってあまりある特撮技術の素晴らしさも特筆ものである。日米合作ということもあり、“洋画の巨大怪物サイズ”を採用、身長20メートルは従来の「ゴジラ」や「ラドン」の約半分の大きさとなる。このためミニチュ アセットも従来の半分の大きさということで、巨大怪獣映画よりもリアル感が増している。
フランケンシュタインが戸上の住む団地に会いに行くシーンや琵琶湖で水中から 突然現れるシーン、そして意外とかわいい顔をしているバラゴンの家畜やバンガローの襲撃場面も、不気味な空気感と異様な迫力に満ちている。最後の対決場面での素早い動きによる両者の戦い方も動物的だし、バラゴンの倒され方もリアルだ。しかしまた山火事の炎をバックに勝利の雄叫びを上げるという合成によるケレン味ある演出も素晴らしい。
そしてフランケンシュタインの特殊メイクがまた絶品。今の技術から考えれば稚拙かもしれないが、それを感じさせない不気味さと、その奥に感じられる悲しみが伝わってくるのだ。子どもの頃に見た時は、その異様な暗さに圧倒された覚えがある。今見返してもその凄さは少しも衰えていない。
そこには直接的な戦争の影はもう描かれてはいない。むしろ一見戦争は過去のもの、映画の設定上必要だったものに過ぎないかのようである。しかしこの絶対的な孤独の中に放り込まれた異形なる怪物に、わたしはどうしても戦争孤児の姿を見てしまうのだ。それも、頼るものもなく、受け入れてもらえる場所も注がれるべき愛情もないまま、飢えと孤独の中で死んでいった子どもの姿を。
一連の特撮怪獣シリーズとも「電送人間」などの変身人間シリーズとも異なる、あるいはその両者を合体させることで新たに作り上げることのできた、東宝特撮映画史上稀に見る傑作。この画面やストーリーが放つ比類なき重苦しさは、決して今の映画にはない、いや、もう二度と出せないものなのだ、きっと。