2013年1月10日木曜日

教員とは実に過酷な仕事であるなぁ

生徒同士のいじめの問題
そこには生徒による対教師暴力の話もあった
そして教師による生徒への体罰の問題
そしてまた児童のアナフィラキシー・ショック死の問題

ニュースで次々に報道される 
こうした話題に接していると
個別に見れば当然非難されるべき
行動や態度があるだろうとはわかっていても
何て過酷な仕事をしていたんだろうなぁと思うのである 

学校は「教育」の名の下に
子どもに対するありとあらゆる面での責任を
全て負わされているかのように思われるのだ
かつては家庭や社会が担っていた部分まで含めてである

それはちょうど“大きな政府”と“小さな政府”を思い起こさせる
“大きな政府”の場合は政府・行政の規模や権限が拡大し
あらゆることに政府が関わりコントロールしていく
逆にあらゆることで政府が責任を負う可能性が高まる
今の学校や教員が置かれている立場は
この“大きな政府”に似ている気がする

これに対する極論的な“小さな政府”は
塾や予備校だろう
子どもたちの知識や学力を高めるためだけに
それらは存在する

もちろん実際にはそれ以外の面でも
子どもたちやその保護者たちを支えるわけだが
塾がいじめを放置したことで批判されることはないし
そもそも塾に子どもたちの
学習面以外の成長を求めようとは誰も思っていない
実は学習することで確実に人として成長もしているんだけども

かつて学校は塾に近い場ではなかったろうか
そしてまた現実的にはかなり難しいにしても
塾に近いかたちであり続けるという
選択肢もあったんじゃないだろうか
でもそうはならなかった
“小さい政府”にはさせてもらえなかった

1990年の民主化直後に
教員視察団の一員としてハンガリーを視察した時
午前中は学校で勉強し
午後は地域のスポーツ・文化サークルで活動するのが 
子どもたちの一般的な生活だと説明されたのであった
社会主義国であったからという違いはあるが
そういう学校一点集中型ではない
子どもを育てる道もあった気がするのだ

しかしそうはならなかった
地域社会が崩れ家庭が核家族化し
かつてはムラ社会という集団の中で
自然に行なわれていた子育て環境が無くなったツケが
すべて学校に回されたという感じすらする

そんな中で今教員たちは
子どもたちやその家庭が抱える多くの問題に
教科の授業以上に必死になって対応している
まるで教員の資質が低下したから問題が多くなったかのように
管理は厳しくなり研修は増え
何かあればすぐ批判や非難にさらされるという
厳しい状況の中でである

「学校は聞いてくれなかった。何もしてくれなかった。」

謙虚に受け止めたい厳しい言葉ではある
でも敢えて言いたい
それなら学校以外の誰かや何かは
学校を非難することより他に
自分から何かしようとしたのですかと

もし学校が
 
「もう限界だ、“大きい政府は止めた”。
 教科教育だけを行なう“小さい政府”になる。」

と言った時
いったい世の中の人々はどうするんだろう

少しでも一緒になってこれからの子どもたちのことを
考えていこうという雰囲気って生まれないものだろうか
学校がダメだから上手くいかないじゃなくて
そこまで学校だけに無理させるわけにはいかないっていう
協力的な視点が必要な気がとてもとてもするのである

もう教員でなくなって実質4年半になるが
心はやっぱり教員なのだなぁ

実はそういう理不尽さに対するストレスも
相当に大きかったんじゃないだろうか
なんて思うのであった