2013年1月13日日曜日

“熱意の暴力”を防ぐために

「強いクラブにするために体罰は必要」
「気持ちを発奮させたいがためにそうした」
「体罰で生徒が良い方向に向かう実感があった」
(朝日新聞1/12朝刊より)

似てるなぁと思った
何にかというと子どもの虐待にである

「子どもの躾のためにやった」

という自分への言い訳をしながら
最悪の場合わが子を死に至らしめてしまう
幼児/児童虐待である
良かれと思って暴力を振るう
それも圧倒的な体力や権力の差の下で
反撃されないことを承知の上で
そこには自分の方が相手寄り優れているという
思い込みも存在する
小さい子どもと大人である親
経験の浅い児童生徒と経験豊富な教師/監督
という関係は
ある意味絶対的であるという点で
一種のパワーハラスメントでもある

しかし児童虐待には
これは躾の名を借りた虐待じゃないのか?とか
いけないと思っていてもすぐ手が出てしまう…というような
自責の念が時折垣間見られる
しかしスポーツ界で体罰を行なっている人には
どうもそういう視点が決定的に欠けている気がしてならない

それは児童虐待のような密室での出来事ではなく
公の場での出来事でありながら
結果を出しさえすれば許されてしまう
つまり公然と体罰をすることを
世間から認められてしまうことによるのかもしれない
むしろ自信を持って開き直って
体罰を行なっている感じすらする

そして体罰なしには指導が出来なくなってしまうのである
コミュニケーションが暴力を通してしかできず
その他の指導方法が思いつかなくなってしまうのだ

結果を出し周囲も黙認/評価するようになると
児童生徒側も
その関係を受け入れざるを得なくなってしまう
そしてそれを正当化する論理を受け入れようとする 
体罰を受けるのは自分やチームが
さらに成長するために必要なことなんだ
それを辛く思うのは自分の心が弱いからだ
体罰が嫌で部活を止める/キャプテンを降りるのは
自分が試練から逃げているだけだ…などと
そうして体罰を指導者の「熱意」の表れと
感じるようになったりする
DVと同じである

体罰に対する批判が強まって
一時的にこうした傾向は減るだろうと思う
でも体育系クラブの体質としての根は深いだろう
さらに心配なのは
虐待・いじめ・DV・パワハラなどがそうであるように
肉体的な暴力だけが暴力ではないという点だ
言葉や態度による精神的な追い詰めを
指導者は「試練を科す」の名の下に行なっていないだろうか
これは暴力ほど明確に表に出ない分対応が難しい

今回も保護者は異変に気づいていたし
指導者と話し合うことも行なっている
でもやっぱり保護者が直接学校に意見を言うのは
一般的にはなかなか難しいことだと思う
まして自分の子どもじゃないとなれば
出来るだけ波風立てたくないと思うのは人情である

であればこれはもう
匿名で苦情や訴えができる第三者機関を作って
ことの真実や実体を見極めたり
異常な状態であることを認識させたりする必要が
あるんじゃないだろうか
学校と生徒・保護者の間に入って
様々なトラブルに対処する専門機関である

システムそのものを変えようとしなければ
既存のシステムで生じるトラブルは
決して消えることはないのである