「ガメラ3 邪神<イリス>」覚醒」(1999年)からも、早10年が過ぎようとしている。そこで少し普通と違った角度からこの作品への思いを述べてみたいと思う。以下ネタバレ内容なので未見の方は、ここまででご遠慮しただくとして。
ガメラの生体戦闘兵器としての造形的な美しさ、脚本的に詰め込み過ぎな感はあるが、「わたしはガメラを許さない」という意外性のある設定、次々と展開するストーリー、複雑な人間模様、個性的なキャラクター、渋谷のギャオスとの戦いや京都のイリスとの戦いでの迫力の特撮シーン、手に汗握るCGでの空中戦、下からあおるなどのキャメラワーク、史上初となる屋内(京都駅)での最終決戦、ズダボロになる肉弾戦。まさにみどころ満載。「ガメラ1」、「ガメラ2」と比較した時、映像の“密度”が違っていた。
ただし肉弾戦としての戦いは、以前書いたように昭和ガメラの動物的な、相手の急所である首に噛み付こうとする生々しさはない(2008.12.10「ガメラの目」ご参照のこと)。「ガメラ3」では、イリスを前にして、ガメラがどう戦おうとしているのかがわかりにくい。それはつまりこれから命の奪い合いをしようという緊張感が、両者とも欠けている感じがするのだ。嵐の中の燃える京都という劇的な舞台が整っているのに。
バルゴン、ギャオスを相手にしていた頃の昭和ガメラなら、あれほど易々とイリスに腹部を撃ち抜かれないだろう。まして右手を自ら吹き飛ばしたなら、緑色に血みどろになりながら、左手(左前足)だけで立ち向かい、しつこくしつこくイリスをかみ殺したかもしれない。
イリスをボロボロにするガメラの一撃も、動物的な生々しさはない。そう、昭和のガメラはきちんと「殺すこと」、「死ぬこと」というものを、怪獣同士の戦いの中でも表現していたのだと思う。
余談だが、近年の「ウルトラマン」シリーズも、やられた怪獣はいつしか爆発するようになっていた。ウルトラセブンの頃はアイスラッガーで首や胴体を切断されて「死んで」いったのに。ここからも「死」が消えていっているのだ。
比良坂綾奈もドラマ的には、死ぬべきであったと思う。
彼女の怒り、悲しみ、苦しみはガメラを憎むことで生きる糧になっていた。両親が殺されたことがガメラのせいだと思う憎しみで、強く生きてきた。
「あぁ、あれはガメラがいけないんじゃなくて、ギャオスという敵を倒すために仕方なかったことだったんだ」と気づくことで済むようなものではないはずだ。
そんなことはわかっていながら、両親の死や、親戚の家に引き取られるという過酷な運命に対しての、やり場のない思いをガメラへの憎しみに変えて、自分と弟を必死に守りながら生きて来たはずなのだ。
そして彼女が死ぬことで、その憎しみは見ているわれわれにつきつけられる。なぜ彼女は憎しみを抱いて死なねばならなかったか。なぜこんな理不尽なことが起こったのか。彼女の人生とはなんだったのか。どうすれば彼女を救えたのか。
そこでこそガメラの悲しみというか、ガメラが背負っている業に共感できるのだ。敵を倒そうとして人が死んでいく。守ろうとした人間たちが死んでいく。ガメラへの憎しみを持っているのは綾奈だけではないだろう。戦えば戦うほど憎しみも増大していく。それでも戦うことを止めざるをえない。それが自分に課せられた使命だから。
そこまで踏み込む一歩手前で、エンタテインメント側に踏みとどまったのが「ガメラ3」であろう。それは突然死ぬこと、不条理に死ぬこと、命をかけて戦い死んでいくことの無念さ、悲痛さが実感として残っていた「戦後の昭和」でない今は、もはや描けないことなのかもしれない。
でもね、そうやって無念さを抱いて死んでいくことや、無念さをはらして死んでいくことをきちんと描かないといけないんじゃないだろうか。そうしたことに、子供の頃に触れておくことって大事なんじゃないだろうかと思う。その時は意味はよくわからなくてもいいのだ。
名作「ゴジラ」で、逃げ遅れた母子が「もうすぐお父様のところへ行くのよ」と自分らの死を覚悟して抱き合う場面の壮絶さ。涙が出そうになる。恐らく父親は戦死したのであろう。この親子にとって父の死は何だったんだ、そしてこの親子の死は何なんだろう。この親子の人生とは何なんだろう。そこには戦争への、破壊者への怒りが込められている。
「ガメラ3」はいろいろ細かな課題はあるにしても傑作だと思う。しかし一点だけ、比良坂綾奈を生かし、ガメラを許させたところだけは、悔やんでも悔やみ切れないほど残念な結末であった。「ガメラ3」ファンの皆様、ごめんなさい。