2009年2月2日月曜日

「わたしは真悟」楳図かずお

楳図かずおというと何を想像されるだろうか?「へび女」のような恐怖マンガ、「神の左手悪魔の右手」のスプラッター描写、それともギャグマンガ「まことちゃん」の“ぐわし”、あるいは映画化された「おろち」、怪奇主人公シリーズ「猫目小僧」、いやむしろ林家ぺー似の容貌と紅白のストライプシャツ、あるいは奇抜な自宅を作って周辺住民と揉めた人か。 

わたしにとって楳図かずおは、もちろん恐怖マンガ家であった。ストーリーももちろん恐いが、絵そのものが恐い。特に、化け物ではない普
通の絵が恐いことが凄く印象深いマンガ家、そういうイメージだった。なぜかわからないけど、何かが潜んでいる不穏な空気に満ちている絵。

でも特に楳図かずおが好きだったわけではないわたしが、今もってその魔力に取り憑かれ続けているのが、1982年から1986年の4年間をかけて「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に連載された「わたしは真悟」(梅図かずお、小学館文庫、2000年)という作品だ。

  
小学6年生のサトルとマリンはお互い惹かれ合って、町工場に忍び込み、導入されたばかりの工業用ロボットのコンピュータに質問する。「フタリハドウナルカ?」コンピュータの出した答えは「シアワセニナル」であった。二人は「ケッコン」して「コドモヲツクロウ」とする。コンピュータは答える、「333ノテッペンカラトビウツレ」。物語は急展開し、ついに“コドモ”が生まれる。
   
化け物は出てこない。殺人鬼もいない。恐らく楳図かずおのシリアス系作品では、飛び抜けて「恐いと思わせる絵」のない作品だろう。逆に言えば、普通の絵の持つ、なぜかわからない恐さがあらゆるところに現れるマンガだとも言える。
        
基本的にはSFと言えるか。いやジャンル分けは不要だろう。場面場面の異様なテンションや、静止場面の薄ら寒さ、イノチを得た機械のぎこちないのに動物的な生々しい動き、コンピュータの配線の内蔵を思わせる不気味さなど、奇抜なストーリーとともに、一コマ一コマの絵の持つ迫力が読者を魅了し続ける。
   
   
次第にいろいろな謎が物語に入り込んでくるが、何かの伏線かと思うと知らない間に消えてしまったり、すべての謎が最後に解き明かされるわけでもないので、大きなドラマツルギーやクライマックスでの大どんでん返しや大団円を期待してはいけない。そこを中心に見るときっとワケの分からない物語だ。

でもいい知れない力を持っているのだ。淡々と小さな事件や小さな恐怖を描きながら、それが大きな物語に収束しないまま、不気味さと煮え切らなさと、異様な体験をしたという実感をもたらして、マンガ文庫にして全7巻の物語は終わる。いいのだ、だって実際の人生においても、人は知らないこと、わからないことに取り囲まれながら生きて、そして死んで行くのだから。

    
すべてが説明されなくていい。すべての謎がとけなくていい。その世界に入り込み、今までに感じたことのない体験をすること。それが大事なのだ。実際に「なんという物語だこれは!」と思わず本を手にしたまま、しばらく動けなるほどの世界がここには描かれているのだから。
  
  
そして思ったのは、作者梅図かずおは、全体のストーリー以上に、自分でもわからない何かを物語に無意識に託していて、そのことを全体の整合性の破綻より優先させているのではないか、ということだ。

そこで思い出すのは、そう宮崎駿である。まったく重なるところのないように見える二人の作家ではあるが、その底に流れる、コントロールできないところに触れようとする、あるいは触れてしまう作品を作る点に置いて、とても似ている気がする。梅図かずお本人も  
  
「『わたしは真悟』は、はじめはほとんどストーリーを作っていなかったという…」
(「WAVE 4」“Making of SHINGO”、楳図かずお、荒俣宏、WAVE、1985)
   
と言っているし。

久しぶりに「わたしは真悟」を見返して、そんな感想を持ったのでした。

   
1980年代マンガを代表する超傑作。