宮崎駿アニメのは「大人も楽しめる子ども向けアニメ」ではなく基本的に「子どもも楽しめる部分がある大人のアニメ」である。ただそれが、子どもには立派な大人になるための教育的なものを見せるという欧米的アニメ観とは全く異なる、大人の欲望や葛藤を躊躇なく入れるという「日本的子ども文化」の歴史の上で作られているが故に、子ども映画的衣をまとって現れているだけなのだ。
例えば「風の谷のナウシカ」は、映画としてみれば可愛らしくも男&大人顔負けの勇敢で力強いヒロインが、自らの命を投げ打って世界を救う話である、と読める。ドラマティックにしてロマンティックなストーリーだ。しかし巨大な蟲の不気味さ。さらに巨神兵の圧倒的な存在感。あの崩れ溶けていく人間のようなグロテスクさと、強大な破壊力がもたらすカタルシス。決してファンタジックで美しい物語などではない。
あるいは「もののけ姫」。半神半獣の姿をしたシシ神の不気味さ、特にあの恐ろしい眼差し。そして言わずもがなのタタリ神のグロテスクさ。さらには特攻隊と化すイノシシたちの凶暴性集団的狂気。さらにそれを殲滅せんとする大殺戮場面。
「崖の上のポニョ」もプロデューサーの鈴木敏夫によれば、公開に先立って、敢えて子ども映画であることを強調したという。それはこの映画が、あまりに不条理であり批判しようとすればいくらでも批判できる面があったためだったと。
ストーリー的破綻だけではない。その映像表現に盛り込まれた暴力性と破壊衝動。実際、ポニョが嵐の中、巨大な魚のような荒波の上を疾走して、宗介の乗る車を追いかける場面では、映画館で泣き出す子どもが多かったという。子どもはこの作品の恐ろしさを敏感に、そして素直に感じ取ったのだ。(ちなみに「ポニョ」を見た夜に悪夢に襲われたわたしは子どもか…)
襲いかかるように圧倒的な迫力で迫ってくる恐ろしさ。そして全てを飲み込んで海中に沈めてしまう異界の力。そして暗示させられる、全てが海中に没した死の世界。しかしまるで死後の世界に誘うような静かで美しく澄んだ描写。その上を船で滑っていく中で感じる黄泉の世界を思わせる不気味な感覚。
押井守は批判する。なぜリサは嵐の中、制止を振り切って自宅へ戻るのかと。その後にひまわり荘(老人ホーム)へ出かけるなら、最初からそこへ行けばいいではないかと。つまりそれはリサの必然性ではなく、宗介とポニョを引き合わせるための、宮崎駿の都合ではないかと。
鈴木敏夫は言う。その通り。この映画は宮さんの都合でストーリーが進んで行く映画なのだと。つまり高畑勳や自分(鈴木敏夫)の呪縛を逃れて、一度自分の衝動だけで作ろうとしていたものが、この作品になったのだと。
押井守はそれを「20分程度の自主制作映画ならともかく、90分の商業映画としては、やってはいけないこと」と批判する。それも十分に理解できるし、全てに気を配って作りあげられている「スカイ・クロラ」の息の詰まるような完成度が、押井守的立場を十分に物語っている。
しかし、これまでもかなり危うくなっていたけど、それでも多少なりとも残っていた整合性へのこだわりを捨てて、宮崎駿の衝動だけで話が展開しているという、まさにその点が、「ポニョ」の破天荒な魅力なのだ。
ストーリーもキャラクターの位置づけも、よくわからないけれども、でも何か凄い。そして恐い。それは「ポニョ」が、強烈な破壊衝動や暴力性をはらみ、生と死の垣根を取り払うという、われわれの内にある“一線を越えた”世界を表現しているからなのだと思う。
それは恐怖であるが、その恐怖は快感なのである。
ストーリーもキャラクターの位置づけも、よくわからないけれども、でも何か凄い。そして恐い。それは「ポニョ」が、強烈な破壊衝動や暴力性をはらみ、生と死の垣根を取り払うという、われわれの内にある“一線を越えた”世界を表現しているからなのだと思う。
それは恐怖であるが、その恐怖は快感なのである。