2011年5月6日金曜日

〝千羽鶴〟ってどうなんだろう?

“不謹慎”なことを書こうと思う

アメリカで東関東大震災の被災者のために
折り鶴(千羽鶴)を折る動きが広がっていると
朝のニュースでやっていた

折り鶴
千羽鶴

確かに一羽一羽に
折った人の気持ちがこめられているのかもしれない
だから折る人にとっては意味がある行為だろうと思う
あるいは折り鶴を折るということで
震災や日本への関心が高まるということも大きいだろう

それはわかる
わかった上で敢えて思うのは
折り鶴や千羽鶴が山のように届くことは
貰い手としてうれしいんだろうかということだ

自分が被災者だと想像する
心身ともに打ちひしがれているとしたら
千羽鶴は悲し過ぎる
頑張ろうと気持ちを切り替える努力をしているとしたら
千羽鶴は邪魔なだけだ

例え思いを込めておられたものだったとしても
多くの見知らぬ人が折って集めて作られた千羽鶴は
わたしの心には届かず行く宛を失うだろう

あるいはわたしがもし病いかケガで入院したとする
枕元に千羽鶴が届いたとする
わたしはうれしだろうか

例えばそれが顔のわかる人たちのものだったら
その人たちのことを思い涙するかもしれない
でも見知らぬ人たちが折ったものだったら
意外と冷静に
扱いに困るかもしれない

いやもっとひねくれて
死者の鎮魂のためのものみたいだなぁ
わたしはまだ生きているのに
なんて思うかもしれない

千羽鶴はそもそも一人が千羽もの鶴を折るから意味がある
それだけの時間と思いを託したものだから重みがある
極めてパーソナルなものだと思うのだ
だから感謝の気持ちが湧いてきて
それがなんとしても元気になろうという意欲につながる

つまり見ず知らずの人たちが
ちょっと良いことをしたぐらいの気持ちで折ったものとは
見た目は同じでも中身には雲泥の差があるということだ
  
でもやっぱり病床に千羽鶴は嫌だなきっと
  
「オレの病いはそんなに悪いのか…」
  
って思っちゃうかもしれないな
それだけのことをして祈るしか
もう道は残されていないのかって
ショックを受けるかもしれない

あるいは折ってくれた人に与えている辛さや悲しみを
日々感じるモノとなってしまうだろう

昔々中学生だったころ
一緒に受験に合格できますようにと
毎日一羽ずつ鶴を折ってくれた人がいた
あの時の“思いと願いと希望””に満ちた鶴はよかったなぁ

ちなみにその時の受験合格という願いは
二人とも成就されたのであった