2013年1月13日日曜日

「コクリコ坂から」宮崎吾朗

  
ぱっと「コクリコ坂」というタイトルが浮かばず
なんとか坂だったよな〜横浜の山の手あたりが舞台の…
ええっとイロハ坂じゃなくて…イロハ坂じゃなくて…
ええぃ…イロハ坂しか浮かばん!
みたいな感じで最近言葉が出ないわたしですが
超遅ればせながら「コクリコ坂から」を観たのである

91分という比較的短めな作品
もちろん宮崎駿ではなく宮崎吾朗監督が
「ゲド戦記」に次ぐ第二作をどう仕上げたかが
最大の見どころとなった2011年作である

結論から言えばとても良かったのであった
ストーリーに難しいところはなく
ファンタジックな要素もなく
淡々と地味で狭い世界での話が続く
でもそれが心地よいのである

演出的にも意識してデフォルメを抑えた感じだ
宮崎駿の場合はちょっと大げさな表情や動作で
われわれの肉体の記憶を呼び覚まし
感情の高まりを伝えようとしていたが
この作品では皆終始淡々とした動きに徹している
 
主人公のメル(海)が
米びつから米をマスで計ってお釜に入れるという
単純だけれどムダのない一連の動きの
なんと美しいことか
わずかな手首の動きや微妙な間が
日常生活をきちんと送ることの大切さを
教えてくれるようである 

同じようなことは
俊がクラブハウス「カルチェラタン」で
ガリ版の刷り物を作っているところでも感じた
インクトレーでローラーを転がして
持ち上げたときのネチャっとする感覚や
鉄筆で切ったロウ紙の上をローラーを転がす時の
すうっとインクが染み込んでいくような感覚

一つ一つの作業
もっと言えば一つ一つの動作を
きちんと丁寧にやることの大切さ 
そんなことを
いっぱい感じさせられた作品なのである

それはメルが日課として旗を揚げ続ける行為にも繋がるし
この話の大きな山場となる
「カルチェラタン 」の大掃除にも繋がっていく

メルの声を担当している長澤まさみも

かなり感情を抑えて声を当てているが
これが不思議と冷たい女性という印象に繋がらない
むしろ作品全体に落ち着きと上品さを加えているのだ

そういう意味では
波瀾万丈の展開も無く大きな謎も無く
ハラハラドキドキな場面も無く
大どんでん返しも無いこの作品が
作品として成立していること自体が
奇跡と言って良いかもしれない

もちろん不満はある

動作だけでなく表情も極めて抑えて描かれているのだが

こと表情に関しては抑え過ぎな感じなのだ
というか人形のような無表情に見えてしまう場面が
何ヶ所かあったように思うのである

演出を地味に抑えているからこそ
微妙な表情にこだわるといった
集中力が持続しない感じなのである
だからギリギリの感情が絵から伝わって来ない


もちろんこのような世界も現実にはあり得ない
例えそれが1960年前後という時代であったとしてもだ
それは「カルチェラタン」を中心としたモラトリアムな世界
一人の悪人も大人の闇も存在しない善意に満ちた世界

その中で「カルチェラタン」を救うために掃除をするのだが
なぜ大規模な掃除に突入していくのかはあまり明快ではない
でも物事はなぜかご都合主義的に上手くいってしまうのだ
二人の微妙な関係を含めて
結局少年少女は大きな試練も挫折も味わわず 
物語は平和に静かに終る

だからこの平板で捻りの無いストーリーや
余りにささやかな主人公二人の恋愛模様に
鼻白む思いをする人もいるかもしれない

それでもわたしはこの作品が好きである
そうしたマイナス要因があると自覚した上で
この静かで丁寧な所作をする登場人物たちが好きなのだ
そしてゆっくり歩くように進むテンポが心地よいのである

時々取り出しては楽しみたくなる作品になりそうである