2015年6月22日月曜日

「Colorful カラフル」原恵一監督

「クレヨンしんちゃん」の映画や「河童のクゥと夏休み」、そして最新作「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」の原恵一監督の2010年作「Colorful カラフル」を見た。

いじめにあい、友だちもいない中学三年生「小林 真」が、母親と好きな後輩に裏切られたことにショックを受け、睡眠薬自殺する。本来なら死んでいたその体に「ぼく」が宿る事で生き返る。そして「ぼく」が「小林 真」として生きてゆく中で「小林 真」が気づかなかったことに気づき、人とはいろいろな色が混ざっている(colorful)なんだと、少しずつ理解しながら、生きることに前向きになってゆく、というような物語だ。



 

  

まずストーリー展開を単純に追った印象。

どんなに辛くても自殺してはいけない。自分も含めて、人にはいろいろな面があって、その中で過ちを犯すことだって当然あるのだ。人はどうしても一面だけで判断し、勝手に分かった気になってしまうが、人間はもっと複雑でおかしな存在なのだ。それを認めてあげよう。そうすればもっと楽に生きられる。あるいは新しい展開が開けるかもしれないのだから。


でもこれに対しては、素直には受け入れられない気持ちが湧いてくる。


まず「小林 真」が死を選ぶまで追い詰められた感じが、どうしても伝わってこないのだ。辛いとか苦しいとかだけではなく、つまらないから死んじゃおうかな、みたいな空虚感も

感じられないのだ。むしろ、母親を罵倒する場面などには思春期特有の、家族への嫌悪感がリアルに感じられる。理屈は後付けだ。

それに、すべてが好転してゆくのは、「真」に男友だちができてからのことである。それはおかしいだろう。友だちができないことこそ、一番どうにもならない問題なのだから。親友と言えるような友だちができれば、生きていくことの楽しさを感じられるようになる、なんて、あまりに残酷な展開であり都合よすぎる主張である。その友だちができる部分には、colorfulという主題がうまく絡んでいないし。


まして、クライマックスと言える家族会議の場面で、父親が、家族の「真」への隠れた愛情を滔滔と披露するのも変だ。そういう“愛情の押し付け”や“家族の強要”こそが、一番ムカつくことに他ならないからだ。それにその話は父親のバイアスがかかっているじゃないか。つまり父親の理想的家族像の表明・押し付けとも取れるのである。


しかし「真」はここで、一人の人間の中の多様性(colorful)を知り、“素直”に自分の心を吐露し、自分をバカにしていたと思っていた兄を受け入れ、自分を裏切ったと思っていた母親をも受け入れることになる。ありえない。


では、もう少し作品全体の印象を見るとどうなるか。これが、言葉やストーリーによる印象とちょっと違うのである。


「真」がどう理解しようと、「プラプラ」がどう演説しようと、ここに今の思春期の子どもたち(あるいは今のわたしたち)を取り巻く、言いようのない不安と苛立ちに満ちた世界が描かれているように思う。


人は複雑に(colorful)にならずには生きていけないくらい、いろいろな苦しみに直面しているのだ。残念ながらそれがわかったところで大きくは何も変わらない。学校は学校であり続け、家族は家族であり続けようとする。


この閉塞感、重苦しさ、いたたまれなさ、そしてそれを覆い隠そうとする“おためごかし”と、それに乗っかるしか道がない絶望感を感じさせてくれるという点で、結果的にこの作品が今の時代を切り取っている気がするのだ。


だからラストに、爽やかさや希望があまりも感じられないのも当然なのである。


そんな状況であることをわかった上で、ギリギリ一般に受け入れられそうな物語にワザとしたのかもしれないな。


本当に自殺のことをテーマにしたいなら、学校がなくても、家族がなくても、友だちがなくても生きて行ける。だから死ぬな。だと思う。でもやっぱりそんな大枠を壊さないで、現実にもなかなか壊せなくて、その中で夢や希望を語りたい、語るしかないのだろうなぁ。


声優の演技が画面の熱量に追いついていなかったり、表情が時々能面のように消えてしまったり(流れとは別)、プラプラの妙な関西弁が気になったり、ひっかかったところはいろいろあったけれど、全体としては考えさせられる映画であった。

   
個人的には、今春完成したライズ建設中の二子玉駅周辺再開発激変期の様子が、何とも言えないアンダーグラウンドで刹那的な雰囲気を醸し出していたのも良かったなぁ。懐かしさもあったしね。