2016年1月14日木曜日

翻訳する面白さは熟読する面白さでもある

翻訳する面白さは、
書かれた英文が刺激する感情を、
できるだけ同じ感情をうまく刺激する日本語に
置き換えられるかという
突き詰めれば、
針の穴を通すような作業の醍醐味にある。

そんな日本語表現が見つかった時の喜びは大きいし、
見つかるまで全然先に進めずに、
それでも結局
ぴったりな日本語が見つからなかったりするのだ。

でももう一つの楽しさは、
熟読する楽しさじゃないかと思うのだ。
   
普段本を読む時には
じっくり端から読み込んで、
これはどういう意味で言っているのだろうとか
なぜここで一瞬の沈黙が流れたのだろうとか
この比喩は結局どういう心情を表しているんだろうとか
一つ一つ立ち止まって考えることは
あまりしないんじゃないかと思う。
  
ところが翻訳する上では、
できるだけそういうところを考えていかないと、
言葉がうまく繋がっていかず、
読んでいて、文章がすっと入ってこなくなるのだ。

だから、どういう日本語にするかというのは、
英文読解力の問題とは別に
物語を読む力の問題が大きな意味を持ってくる。
流れが掴めたあとに、日本語表現での格闘があるわけだね。

そしてこのじっくり読むのが結構楽しいのである。
  
試験勉強やら受験勉強やらで精読するのは辛いけど、
こうやって英語作品を日本語作品たらしめたいと
頑張って読み込むのは
ちっとも苦ではないのだ。
  
「ジキル博士とハイド氏」は特にそんな感じである。
楽しいけれど難しい。
   
今日自分ながらに頑張ったなと思ったのは、
前後の流れから、
"I understand." 心中しんちゅうお察しいたします」
  
と訳したことかな。