銀色の人間的肢体に大胆な赤い炎のような模様を配したシンプルで力強いデザインは、デザイナー&彫刻家であった成田亨氏がヘルメットと宇宙服のイメージからデザインコンセプトを作り、それを佐々木明が粘土造形し、試行錯誤しながら練り上げた結果できあがったものだという。
顔も能面のようにほとんど何もないところに、“宇宙人”をイメージさせる巨大な目。菩薩のアルカイックスマイルをヒントとしていると言われる口元は、耳と共に角ばった処理がロボット的であり、それが当時には“未知”や“未来”をイメージさせたのかもしれない。
わたしは子供の頃は当然のようにウルトラマン少年で、ウルトラマンと怪獣の絵ばかり描いていた。そして子供心に気になったのが、ウルトラマンの目の中にある“目”、つまりスーツアクターのためののぞき穴であった。
ウルトラマンを描く時にはこの“穴”はないことにしなければいけない、と思った。あれはウルトラマンの世界では「ないもの」なのだ。でもこの“穴”はどことなく人間の瞳にも見えてしまい、描かないと締まらないような気もした。子供なりに葛藤していたわけだが、不思議とそれを制作サイドの「アラ」だとは思わなかった。それよりもこの“穴”を自分の中でどう処理するかが問題だった。
実際デザインに関わっていた成田亨も、“穴”と、カラータイマーはとても嫌っていたという(「ウィキペディア」より)。
そのことを思い出させてくれたのが、映画「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」(2006)や「大決戦超ウルトラ8兄弟」(2008)で、子供たちの親の世代を意識した初代ウルトラマンのAタイプのマスクの使用だった。懐かしさよりも違和感があり過ぎ。Aタイプとか言われても、そんなにシワシワ意識して見てなかったし。
それに何よりも例の“穴”がしっかり再現されていたのだ。いやむしろ、“瞳”的に強調されているかのようだったのだ。それだけあの“穴”は、当時子供たちだった今のウルトラマン世代に取って、見る側にも作る側にも、ある種のトラウマのような存在なのかもしれない。
あの“穴”を受け入れることは、ある意味大人の世界(現実の都合)を受け入れることであり、またある意味、リアルにこだわらない世界を楽しむという心を持つことだったのかもしれない。吊り用のピアノ線が見えても、飛行機の重量感が感じられれば取りあえず許しちゃう、オッケー、みたいな。
それは歌舞伎の黒子(黒衣)とや文楽の人形遣いのように、見えても見えないこととする日本の文化と、心の底深くでつながっているに違いない。
それに比べウルトラセブンの顔の造形はまた違った意味で見事としか言いようがない。特にウルトラマンでは中途半端な存在だった“穴”が、輝く長六角形の目の中の黒い瞳として見ることが出来るようになっている点が実に巧妙だ。
実際、当時のマンガでは梅図かずおの描く「ウルトラマン」には瞳はなかったが、桑田次郎の「ウルトラセブン」には人間のような涼しい瞳が描かれていた。
さらに秀逸なのが、目のデザイン及びバランスである。この“穴”はマスクの目の位置よりもアクターの目の位置に合わせているので、アクターの顔より一回り大きいマスクにおいては中央に寄ってしまう。にもかかわらず、ウルトラセブンの“瞳”は「寄り目に見えない」のだ。ちゃんと前方を見据えているように見える。これが素晴らしい。
その後この“穴”は巧妙に卵形の目の下あるいは内側の影の部分に異動し、歴代ウルトラマンに“瞳”はなくなった。今の子供たちは初代ウルトラマンの“穴”に、何を見るのだろう。
(右上、左下写真は映画「大決戦超ウルトラ8兄弟」公式サイトより、
右中写真は「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」公式サイトより)
右中写真は「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」公式サイトより)