2009年5月5日火曜日

教員人生をちょっと振り返って

もともと教員になったのは他県であった。数年後に再び教員採用試験を受け直して都立高校の教員になった。ちなみに東京都の教員になることを“入都(にゅうと)する”というのも知らなかった。「ここは地方じゃなくて中央だぜ」って言っているようで、イヤだなと思った記憶がある。
そしてわたしは夜間定時制工業高校に配属されたのだった。工業高校なので普通科教員は各教科1名。「英語科」もわたしだけ。

そして最初の校長面接で行きなり言われたのだ、「本校は今年度から3年間、“国際理解教育推進校”にあたりますので、さっそくですが今秋に一ヶ月の長期海外派
遣研修に参加してもらいます。」と。
   
そして学校にも満足に慣れないまま、1990年10月13日〜11月11日、海外の学校の視察・研修を目的とした総勢20名の「東京都教員等海外派遣研修長期1団」の一人として、インドネシア→タイベルギーハンガリ〜→スペイン→イギリスという、赤道をまたいだ大研修旅行に行ってきたのだった。文化も気候も違う国で、点々を宿を変えながら数校ずつ訪問していくという強行日程なので、心身ともに厳しいものはあったが、それは貴重な体験で楽しかった。(右図は私的報告書。文章、カット描き、製本、すべて自力で行った
後からわかったのだが、どうやら学校として“国際理解教育推進校”を受けてしまって、何をどうしてよいかわからず、取りあえず新採でも構わないから海外視察へ放り込んで、ついでに“国際理解教育推進校”の担当にさせちゃえってことらしかった。案の定、3年後の最終報告冊子もわたしがパソコンで版下を作った。DTPソフト「PageMaker」を駆使して。今見ても良く出来ていると感心してしまう。
後で聞いた所によると、この海外派遣研修に参加すると、経歴上いわゆる“箔がつく”らしく、管理職を狙っている人は参加をしたがるとか。新採で良く行けたものだ。関係ないけど。

1996年には突然東京都教育庁指導部から「高等学校教育開発委員会」のメンバーに指名された。この「開発委員会」というのは教育庁側から研究主題を設定されて、指名された12名のメンバーで、1年かけて何回も集まりを持ち、実践・研究・まとめ、冊子作り、発表会開催を行うという大変なものだった。
学校業務も普通にやりながらだから、仕事倍増である。

普通は向上心のある教員が手を上げて、そこから選ばれたメンバーが自分たちで研究課題を決め、1年かけて研究・実践し、まとめるという「研究員」を経験した者の中から「研究開発委員」として声がかかるらしかったので、いきなり「研究開発委員」になったわたしはずいぶんと珍しがられた。
しかし何のことはない、時代が丁度“マルチメディア教育”に注目が集まっていて、ちょっとそれらしいことを授業でやっていたからだったのだ。でも研究報告書作成と平行してCD-ROMまで焼いたのだ。画期的過ぎて在庫の山になったけど。(左上図は委員会制作の完全オリジナルのCD-ROM)。

ホッとしたのもつかの間、なんと翌年も“
新しいタイプの学校での英語のあり方”を研究主題とした「研究開発委員」に再び選ばれてしまったのだ。これまた異例のことであったらしい。そしてこの時も誰からともなく「研究開発委員」になるっていうことは、“大きな実績”になると言われた。関係ないけど。
  
すると、上の方から、この研究開発委員会の結果を持って、その新しいタイプの高校の開校に向けて、あらゆる準備と環境を整える「開設準備委員」になって欲しいというご指名がかかった。いわゆる一本釣りである。形式上は異動希望を出して行かされたってことになっているけど。
これが前任校になる、日本で初めての「単位制昼夜間総合学科定時制高校」として開校することになる。そこでは「英語」の指導案と教材作りに加え、「ボランティア」の授業の立ち上げ準備をする役割を担った。

そして、そこでも同じように「開設準備委員」をやると管理職になり易いらしいとかいう話を聞いた。実際、委員の一人は開校数年後に指導主事になっている。関係ないけど。
こうして振り返ると、上昇志向の強い人だったら結構イケテル経歴なんじゃないかと思うのだ。研究発表も、英語関係、マルチメディア関係、ボランティア関係と、それぞれもの凄い気合いを入れて準備し、プレゼンしてきているし(右下図は「ボランティア」研究発表資料の一部)。

その気さえあれば学校での管理職、あるいは都庁での指導主事になっていても全然おかしくない。われながらスゲェなぁと思う。とともに、よくこなしてきたものだと感心してしまう。

自分としては、常に生徒に一番近いところにいたいと思っていただけだった。でも結果的に自分に“
上昇志向”がなくて本当によかったと思っているのだ。謙遜でも皮肉でも開き直りでもなく。

だって今都立高校は校長を頂点としたピラミッド構造を作ろうとしている。「校長」、「副校長」、「主幹」、そして2009年度から導入された「主任教諭」、そして「教諭」という枠組みだ。予定ではわたしはまず「主任教諭」になって欲しいと管理職から言われていた。その後には「主幹」を期待するような雰囲気も漂っていた。

なんかこの「主任教諭」になるはずのタイミングで、ピラミッドから脱出できたっていうのは、ちょっとした運命を感じるなぁ。それにこれだけの経歴と、それなりの実績を放り出して、全然違うことを始めるっていうのも、愉快・痛快でいいじゃない。