物語の展開や、最後を決めないで作るという
かなり変わった、真似のできないような作り方をしているせいか、
宮崎アニメは「夢」に似ている気がするのだ。
「夢多き映画」という意味ではない。
「夢」そのもののように、不条理で予想外で、
展開が異様でありながら、どこか実にリアルで、
ストーリー的には破綻しているのにそれを感じさせず、
不思議な感情が刺激されるところが、
特に最近の宮崎アニメに似ている気がするのである。
「夢」というのは映像ではない。
だから「夢」を映像として記録するというのは意味がないのだ。
強烈な映像が目覚めた時に記憶に残っている場合もあるだろうけど、
基本的に夢は、感情の連鎖なのだと思う。
どこかに行った時の感情、何かを見た時の感情、
誰かに会った時の感情、何かをした時の感情、
そういったものは、楽しいとか悲しいとか
大きく括って納得しがちだけれど、
実はそれぞれが違うのだと思う。
そういう個別の感情や感情の動きが
夢を貫いているものであって、
映像はその一部として使われたり使われなかったりしている、
いわば脇役みたいな感じじゃないかと思うのだ。
そして映像だから記憶に残りやすいだけではないかと。
目が覚めた時に
夢の映像そのものではなく、何だか分からないけど
とっても悲しい思いに浸っていたり、
妙に懐かしい感情が残っていたりするのは
そう言うことなんじゃないかと思う。
そして宮崎アニメを見ると、
ストーリー的には唐突だったり理解しがたかったりしても、
なぜか感情的には意外とすんなり味わえたり
ストーリーではなく、ちょっとした動きに
もの凄く共感したり、感動したりしてしまうことがある。
それはこちらの理性ではなく感情がいきなり刺激されるからだろう。
だから理屈(悲惨な境遇とか)や
ドラマツルギー(泣かせる展開とか)で
ある種、理詰めで人を感動させようとする
ハイウッド型とはまったく異なる
やっぱり日本からしか出て来ないような映画なんだなと思ったのだ。
もちろん作られたものを味わえる人は
世界にたくさんいるわけだけれども。
ふとそんなことを考えてしまった。