2015年9月3日木曜日

自画自賛日本とエンブレム問題

もともとそういう国ではあるのだが、
ここしばらく東南アジアでの日本批判が続いたことで
日本は必死になって
「欧米人から賛美される日本」幻想を
自分に思いこませようと
躍起になっていた感があるわけだ。
テレビを見れば、そんな番組だらけである。

これもまた、回りくどいが自画自賛である。

「ほら、日本てこんなに凄いんだぞ」とは言えないが、
「ほら、外国人(欧米人)が
 日本てこんなに凄いんだって、言っているよ」
というふうに、
「主張」ではなく、まるで「事実」であるかのように
自画自賛したいのである。

その違いは、

自信や尊大さの表れとして自画自賛しているのではなく、
むしろ逆に、自信を失い、
精神的に不安定になってしまっているために、
承認要求が強く出ているところにある。
オブラートに包んでいるが、なり振り構わない感じすらする。

そんな時代的な気分の中で、五輪招致が決まったのだ。


五輪をやりたいとかやりたくないとかではなく、

五輪招致を世界から認められたことが、
日本人の承認欲求を大いに満たしてくれた。

もちろん、うまくいけば
「世界(欧米人)から賛美される日本」を大いに実感できる
絶好の機会となるはずである。

ところが、まずメインスタジアムが白紙になってしまった。

デザイナーが日本人ではなく、
デザイン自体も日本的とは言い難かったので、
予定通り完成したとしても
「欧米人から賛美される日本」的満足度は
あまり高くなかったのだが、
建築技術の高さで「賛美される」ハズであった。

ところが、その計画が頓挫したことで

「賛美される」どころではなくなってしまった。
いや、むしろ「呆れられる」とか
「非難される」かもしれない事態になってしまったのだ。

その不満や不安が、潜在的にあったと思う。


そこにあの公式エンブレムが登場した。

ところが、日本人デザイナーのものであるにもかかわらず、
それはあまり日本的なイメージが感じられないものであった。
少なくとも招致用図案のような
華やかさ、若々しさ、素朴さがなかった。
つまり《カワイク》なかったのだ。
重厚なデザインではあったが、
「世界(欧米)から賛美される日本」のイメージとは
どこか違っていた。

そんな盛り上がらないどんよりした雰囲気が

実は、エンブレム発表の段階から
すでにあったように思う。

そこにベルギーのデザイナーから

著作権侵害で法的措置を取る話が出た。
「欧米人から賛美される日本」イメージをくつがえす声が、
まさにその欧米人から具体的に上がってしまったのだ。

メインスタジアム白紙の件では、

不満や怒りの矛先がはっきりしていなかった。
しかしエンブレムの場合は対象がはっきりしていた。
そこで、そのスタジアム白紙の不満まで巻き込んで、
バッシングが嵐のように膨れ上がってしまった。
そして、精神的な不安定さが根っこにあるから、
ここまでヒステリックになってしまったのだ。

そういうことのような気がするのである。


だから新国立競技場にせよ、新エンブレムにせよ、

「世界(欧米)から賛美される日本」という
今の日本人が抱えている潜在的で強大な承認要求に
沿ったものでないとダメだと思う。

エンブレムが白紙になったという前代未聞な出来事で、

世界から「呆れられ」「非難される」かもしれないという
日本人の不安は、さらに高まってしまった。
でも、新しいものを考える上で大切なのは
視点を変えることであって、
ハードルを上げることではないと思う。

自虐的に響くかもしれないが、

「世界(欧米)から賛美される日本」が
日本人にわかりやすくイメージできるもの。
ここがポイントだと思う。